2013/07/12

望のオクトパス








  一体何をしているんだろうと、切なくなることもある。
  しかし残念ながら株やギャンブルの才能はないし、月給以上の収入を効率よく得るためには、他に選択肢はない。

「足、ちょっと開いて貰えますか?」

  父親が事業で失敗して残した借金を返していくには、俺と兄貴がなんとか働くしかない。六十歳を越えるお袋は朝から晩までバートで頑張っている。父親も慣れない工場勤めで、連日疲れ切っていた。

  ここは、俺達兄弟の頑張り所だ。

  だけど元々安月給なのに、月に二十万も実家に仕送りをするためには、多少手を汚すか体を汚すしかない。

「いいですね。もう少し、腰下げてください。お尻じゃなくて、腕を突き出す感覚で」

  うちの会社は副業禁止だが、幸いこの仕事は会社の同僚に偶然見付けられることはない。
  万が一ばれたら、金を貰わずに好きでやってることにすればいい。
  どうせ内情を知っているのは、この年下の男だけだ。
  彼が黙っていれば問題ない。

「その、盛り上がった筋肉がよく見えるように、右腕に力を入れてください」

  服を着た男の前、回転する木の台の上に中腰で立つ。
  そして男の背後、周囲を服を着た男女が取り巻いている。
  彼らは俺の体の隅々まで、余すところなく視線を這わせてくる。まるで筋肉の隆起による陰影の欠片すら見逃したくないとでもいうように。



「はい、では、このポーズで描いてください。いつものように時間は10分です」



  パン、とこの教室の主である年下の男が手を叩いて壁際に移動する。彼はそこから学生達の絵を眺めて、ときどき指導をする。
  鉛筆をカリカリと忙しなく動かす音が聞こえた。
  10分以内に完成度の高い物を作ろうとしたら、彼らにぼんやりしている時間はない。

  この仕事を始めて三ヶ月。年若い女子大生を前に全裸でいることにも慣れた。
  初日はエレクトが恐ろしくて、前日と当日の朝に空っぽになるまで出した。
  実家が借金を背負ったことで、婚約者兼恋人には逃げられたから、自分の手でやった。
  虚しい作業だったが、今や火曜の夜と水曜の朝の習慣になっている。

  もうとっくに結婚して子供がいても良い年齢だから、二回分出せば十分落ち着いていられる。
  見られて興奮する趣味もないから、エレクトの心配はない。
  水曜日は。問題は日曜日だ。

  先日のことを考えていると、その思考を切り裂くようにパンと男が手を叩いた。
  10分経ったのだろう。
  俺はまた別のポーズを指定される。

  その後も教室にはパン、パンと乾いた手を叩く音が何度か響いた。終業ベルが鳴る数分前、俺はようやく解放される。
  同時にバスローブを渡された。
  それに身を包んでいる間、学生達は男にデッサンを提出し、イーゼルと椅子を片づけて教室を出ていく。

「お疲れさまです、如月さん」

  槍投げをする格好、中腰、クラウチングスタートのポーズなど、制止するのがきつい体勢を強いられたせいで、体は酷く疲れている。

  回転台に座り込んで、いつも男がいれてくれる珈琲を待つ。

  回転台は大きい。ときどき寝そべるポーズも取ることがあるが、それでも台から頭や足がはみ出すことはない。これと同じ物が、男の自宅にもある。

  本当なら早く着替えて帰ってしまいたいが、着替えは隣の準備室のロッカーにある。
  
  次の予定、つまり日曜日の仕事に関しての話が済まなければ、帰れない。

「はい、どうぞ」
「……どうも」

  服を着ていれば冷房は心地良い温度だが、裸でいるとどうにも肌寒く、真夏だっていうのに温かい珈琲が心地良い。

「それで、次回なんですが日曜日で大丈夫ですか?」

  俺の会社は週休二日だが連続して取れるわけじゃない。
  一応水曜日と日曜日が休みになっているが、日曜日関しては仕事が入れば休日出勤になる。
  その変動的な休日に、俺は男の個人的なモデルをやることになっていた。
  拘束時間は三〜五時間程度。
  場所は男の家だし、同性だから全裸でも意識する必要はないと、一番最初に引き受けたときは気楽に考えていたが、とんでもなかった。

「…………大丈夫です」

  俺がそう答えると、男はにこりと笑って「では日曜日の午後一時からいつものように五時間ほどよろしいですか?」と口にした。







  そもそも俺がその男と会ったのは、一年前のことだった。
  俺は通っていたジムで、ロッカーの使い方が分からずにいた戸惑っていた若い男に話しかけた。

『それはカードを通して、暗証番号を設定しないと使えないですよ』

  第一印象はぼんやりした奴だと思った。
  見た目では二十代半ばから後半といったところで、仕事帰りなのかスーツ姿だった。

『わざわざ教えてくださってありがとうございます。ところで、ちょっとお伺いしたいのですが……』

  男は施設の事を訊いてきて、俺はそれに答えた。
  特に太っても、痩せてもいない標準的な体型だったが、本人は自分の体が好きではないのか、『運動してもあまり筋肉が着かない体質なんです』と俺の方を羨ましそうに見ていた。

  俺は予定さえなければ頻繁に仕事帰りにジムに顔をだしていたが、男はそれほど熱心なタイプではないようで、顔を合わせることは少なかった。

  会えば会釈ぐらいはしたが、まともに話したのは初対面のときぐらいだった。

  だけど親父の会社が倒産して、ジムの会費も節約するために受付で退会手続きをしていたとき、不意に男に声をかけられた。

『辞めるんですか?』

  ジムのスタッフには退会理由を誤魔化したが、駅に向かう迄の間、男には本当の事を話した。
  友人にも会社の同僚にも話せなかった重い話を、誰かに吐露してしまいたかったのかもしれない。
  
『副業探さないといけないですね』

  状況に打ちのめされそうになりながらもそう言うと、男は軽く俺の体に視線を這わせた後で「美大のヌードモデルなんてどうですか?」と口にした。

  茶化しているのだと思い、むっとしながら「こっちは真剣に悩んでるんだ」と言い返した。
『こっちも真剣に提案してます。よければ、うちの大学と俺の個人的なモデルになりませんか?』

  男はそう言うと、微笑みながら名刺を差し出した。
  校章の入った小さな紙には男の名前が書かれていて、その上には教授と着いていた。

  何かの詐欺何じゃないかと思いながらも、俺はその名刺を受け取った。




  それが全ての始まりだった。















「ん……、う、う……」

  ぬめぬめとした感触に思わず目を閉じて、最悪だ、と息を漏らす。

  男の自宅は郊外の、都内とは思えないほど緑に恵まれた地域にある。
  中庭に面した一階の一室がアトリエになっていた。
  俺はこの部屋とバスルームにしか行ったことはないが、男の一人暮らしのわりに掃除が行き届いていて、古民家のような造りの家なのに清潔感がある。
  
  今日はアトリエの中央に置かれた回転台に、白いシートが敷かれていた。
  一見するとシーツに見えるが、防水加工が施されている。
  どれだけ濡れても良いように、という配慮だ。

  男はアトリエを締め切ると油彩の匂いが籠もってしまうと言って、いつも中庭に面した掃きだし窓を開けている。
  
「足、ちゃんと閉じていてくださいね」

「ふ……ぅ、変態、だろ、あんた」

  以前から思っていた。

  いつまでたっても男の個人的なモデルは慣れない。
  一番最初はただの裸だったのに、要求は徐々にエスカレートしていった。

  先日なんて全裸に黒いガーターベルトと真っ赤なハイヒールを用意された。
  縄で縛られたこともある。男は「SM緊縛完全マニュアルこれであなたも素敵な縄師」と書かれた本を片手に、俺の体をお歳暮のハムみたいにした。
  その前は確か、通販で買ったというウジ虫を体に乗せられた。
  俺が悲鳴を上げたら「マゴットセラピーだと思ってください」と笑ったが、泣きそうになりながら睨んだら一時間で解放してくれた上に、ボーナスもつけてくれた。しかしウジ虫が肌の上を這う感覚は、タオルで何度擦っても一向に消えなかった。

「失礼な。芸術ですよ」

  絶対に嘘だ。絶対に騙されている。絶対に変態に違いない。
  
  しかし仕送り二十万のためだ。
  耐えるしかない。

  兄貴なんて子供や嫁を抱えて、仕送り費を捻出している。

  親戚からも随分金を借りているし、祖母は畑を処分したと聞いた。
  俺だって今まで父親のお陰で良い思いを散々させて貰ったんだから、これぐらいは親孝行しなければ。

「う、ぁ………う……」

  だけどそれは身動ぎするだけで、ぬるぬると動く。

  気持ち悪い、信じられない。
  
「動くとずれるので、じっとしてください」

「ひっ……ぃ」

  俺の股間の間で、その吸盤がついた足を拡げているのはタコだ。
  種類は分からないが、かなり大きい。
  今朝市場で買ってきたのだそうだ。
  
  唯一不幸中の幸いなのは、それが死んでいるということだ。
  男は生きてる状態でやりたかったらしいが、運ぶ途中に一匹死んでしまい、仕方なく残りも殺したのだという。一匹だけ死んでるのはおかしいという、男の拘りがあるらしい。

  そう、タコは一匹じゃない。
  俺の股間、胸、足の爪先に乗っている。

「は、裸の男にタコが張り付いている絵を描いてどうする、んだよ」
「春画にはタコやイカに犯される女性の絵もあります。恐らく、日本人の触手好きはあの辺りから来ていると私は睨んでいます」

  そんなこと聞いてねぇよ!

「元々、私はエロティシズムとフェティシズム、シュールレアリスムを基底とした幻想派の画家なんです」

  言っている言葉の意味は分からないが、芸術も男も俺の理解を超えた所にいることがよく分かった。

「ふ、っ」

  ぬちゃりと胸を滑ったタコを見て、男が絵を中断して近づいてくる。
  それからタコを再度、横向きに横たわる俺の胸に被せた。

  吸盤の先を乳首に引っかかるようにかけてるのを見て、それが滑ったときのことを考えると、微妙な気分になった。

  モデルをやってる間、制止したポーズを維持するのは大変だ。
  しかしちょっとでも身動げば、タコがぬるぬると滑る。
  途中、そのぬめりがなくなってきてほっとしたら、男が霧吹きでタコに水を与えてぬめりを復活させた。


  胸だけじゃなく足で挟んでいる股間のタコも、ずるずると抜かれた上で、何度か調整された。
  
  タコの頭が足の間をぐにゅりと滑ったときに、思わず声が漏れそうになって唇を噛む。
  軽く体を揺らせてしまったせいで、胸のタコがまた落ちた。
  だけどやはりぬめりが足りなので、ぬるぬるというよりは、ずるりと乳首を吸盤が引っ掻く。

「……あっ」

  思わず噛みしめた歯の間から声が漏れる。

「如月さん」

  男はいつもの世間話でもする様子で俺に声をかけると、「タコが気持ちよかったんですか?」と俺のエレクトした股間を見ながら呟く。


「タコも女装も縄も氷も蛇も、如月さんはなんでも好きなんですね」



  お前こそ変態じゃないか、と言いたそうな男の顔を見て、羞恥に顔を染めながら自分のエレクトしたものを見下ろす。
  きっと、今回の絵もそうなってしまった状態を描かれるのだ。


  そう思ったら居たたまれなくて、思わずタコでそこを隠した。
  きっとタコも不本意だろうが、仕方ない。

  男は勝手にタコを動かしたことに、文句を言うことはなかった。
  その代わりに「夕食は、タコを使ったお好み焼きなんかいいですね」と衝撃的なことを呟く。

「食うんだ……、これ」

  やっぱり俺より変態じゃないかと思いながら、そっと股間からタコを外した。
  





  







  


   
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