二月から来た派遣社員の22歳の女の子を、初めて見たときから可愛いと思っていた。
正社員の産休代わりに入ってきたので、延長無しの三ヶ月契約だった。
もし関係が拗れても、来月には彼女はいなくなる。
だから気軽に誘いをかけた。
見た目には自信があったから、断られる可能性に関してはあまり深く考えなかった。
そして予想通り、彼女は俺の誘いに乗ってきた。
あまりに簡単だったから、営業第二の主任と寝てるという噂も、満更嘘じゃないのかも知れない。
「夫は先月から海外なんですよ」
二人きりで食事をした後で、店を変えて飲んでいたときに、彼女は笑いながら打ち明けた。
「指輪してないし、若いから独身かと思ってた」
「ふふふ、私もちょっと結婚は早すぎたかなって。だって素敵な男の人がたくさん回りにいるから、どうしても後悔しちゃう」
意味ありげな視線を向けてくる。
旦那がいるというのは、牽制のためではなくスパイスのために口にしたらしい。
背徳感とリスク、それから他人の女を寝取る事への優越感。
今まで不倫はしたことなかったが、もしかしたら露見したときに面倒な関係に敢えて手を出す連中にとっては、それが醍醐味なのかもしれない。
秘密を打ち明けられた三十分後には、指輪のない指に自分のそれをからめて、二人で彼女の家に向かった。
良い夜だった。
彼女は積極的で、若いのにテクニックに長けていた。
スポーツをした後のような、心地よい疲労感を感じて眠った。
目覚ましはかけなかった。
翌日の仕事は午後出勤だったし、朝食を用意すると彼女に言われていたから。
理想的な朝になるはずだった。
しかし、俺は女の泣き叫ぶ声で目が覚めた。
「いやぁああああああぁぁあ」
「なつみ、うるさい。ご近所迷惑だから」
「そ、そんなのどうだっていい!! 別れたくないの!! お願い!」
「別れたくないなら浮気しなきゃ良かったのに」
「う、浮気じゃないのよ! これ、レイプなの!!」
「レイプ?」
「そう、私この男にレイプされたの! 同じ会社の先輩で、無理矢理されたのよ!」
は?
「ベッドの下に、コンセントに繋がれたた携帯が置いてある。キッズ仕様で着信すると自動的に通話状態になるやつ。お前が色んな相手と楽しんでる音声データは、俺のパソコンに入ってるよ。全部は聞いてないけど、三日前は上の階の学生を引っ張り込んでたよな」
「ち、ちち、ちがうの! っていうかそんなものを使うなんて、私のこと信用してなかったの!?」
「うん。本当に信用しなくてよかったよ」
「そ、そんな、それ、それ、盗聴じゃない!}
「ここは俺の家だから、盗聴にはならないよ」
「は、はなしを、聞いてよ! そうじゃないの! さびしかっただけなの!」
「そうか、それは悪かったね。じゃあ俺と別れてその寂しさを埋めてくれる相手と楽しく暮らしなよ。元彼がいいんじゃない? 無職で一日中家にいるみたいだから、寂しくならないよ、きっと」
目なんか覚めなければよかった。
背中にだくだくと汗が流れる。
現在、枕に顔を埋めて眠る俺の足下、ベッドの横で派遣の子が泣き崩れている。
見えないのでよく分からないが、男に縋りついているようだ。
これは、状況からいって、どう考えても海外に行っていた筈の旦那が帰ってきたパターンだ。
彼が寝室をあけるとそこに妻と間男がベッドで寝てました、という有り触れた悲劇の一幕。まさか自分がその登場人物になるとは思わなかった。
「愛してるのは貴方だけなの! 信じて! お願い! 捨てられたら私死んじゃうわ! 自殺してやるから!」
「他人に迷惑がかからない方法にしなよ」
「どうしてそんなひどいこと言うの!」
「もう愛してないから」
「いやぁああああ、捨てないでぇ!」
透明人間になりたい。
中学時代、煩悩に溢れていてプールの更衣室に覗き込むための方法を本気で考えていたときより真剣に、そう願う。
「とりあえずさ、高校生以外には全員慰謝料請求するから連絡先教えて」
「な、なんでそんな」
「うん、嫌なら高校生の件で警察に突き出すから」
「だ、だってそんな、無理矢理じゃないのに」
「未成年と性交渉したら無理矢理じゃなくても犯罪なんだよ。罪は立証できなくても、君の両親はそういうの嫌いだと思うよ。知られたら困るね」
「っ、ひどい」
「まあいいや、とりあえず全員の名前と連絡先よろしくな。間違ってたり、人数誤魔化したりしたら、即行警察な」
「そ、それ教えたら離婚しないでくれる? ねぇ、たっくん、約束してくれる!?」
「交渉って言うのは、まず誠意を見せなきゃ始まらないよね」
きっとリストを渡しても、男は離婚を考え直したりはしないだろう。
冷静な第三者の視点から見ればすぐにそうと分かるが、彼女は僅かな希望に縋って「全部教えるから離婚だけは嫌!」と泣いている。
透明人間が駄目なら、俺に時間を止められる能力を下さい、神様。
よく映画とかであるあれでお願いします。
「それからそこのあんたも、誠意みせてよ」
これ、俺に話しかけてるのか?
いや、今完全に俺は寝ているから。
俺のことは忘れてお二人でどうぞ。
そして出来ることなら話し合いの場をファミレスなり、カフェなりに移して頂けると大変有り難い。
その隙に風の如く帰るから。
お構いなく。
「五秒以内に起きないと、会社に電話して事情話すけど。雨之自動車品質保証部の美濃直紀さん」
「……はい、すみません」
三秒待ってから、起きあがる。
給食のカレーを全部廊下に零してしまった小学生のような気持ちで、のろのろと相手の顔を見る。
彼女の夫は、かわいい顔をしていた。
童顔で、大学生と言われても違和感がない。
カラフルなTシャツと、黒いデニム姿はとても会社勤めをしているように見えなかった。していたとしても、会社では新入社員のような立場だろう。
そんな子供に説教されるという状況は楽しいものではないが、自分の立場が悪いことはよく分かっていた。
何故名前が分かったのかと思えば、その手には俺のパスケースがある。
IDカードが顔写真付きで入っている。
派遣の子は、何故かこちらをきつく睨め付けていた。
この状況は何もかも俺のせいだと言わんばかりだ。
確かに誘ったのは俺だが強引にしたつもりはないし、夫の話からすると、他にも何人も引っ張り込んでいたのがばれたようなので、彼女にそんな目を向けられる謂われはない。
「三十二歳か。俺より十個上だね。結婚は?」
「してない、です」
「なんで?」
「……理由は、特にないですけど」
なんでそんなこときくんだ?
落とし穴と地雷がどこにあるのか分からないのに、目隠しで歩かされている気分だ。
「なつみー」
彼が彼女を呼ぶ。
「はい」
彼女はいつの間にか携帯を片手にメモ用紙に何かを書いていた。
恐らく、彼が所望したリストだろう。
「服着て、鍵置いて、とりあえず家出て。俺、この人と話さなきゃならないから。あ、序でにそのまま一回実家帰って。俺が良いって言うまで家に入らないで。連絡もお前からはしないで。破ったら即離婚。分かった?」
口調だけはひどく優しく、彼がそう言った。
「え、あの」
「そのリスト、メールで送って。ああ、結婚してるかどうかの有無もよろしく」
「あ、でも」
「なつみの誠意が見たいな、俺」
「でも、一回出ていったら、たっくん、二度と家に入れてくれないんじゃ……」
「なつみは、俺のことが信じられないの?」
馬鹿みたいに甘い口調になった。
確実に今、この男は彼女を騙そうとしている。
しかし、俺に何が言えよう。
俺はただここで、貝のように黙っているのが仕事だ。
できれば本当に貝になりたい。
彼女と彼の間での交渉が成立し、彼女が簡単に荷物を纏めて出ていく。
そして俺と男は二人きり。
さあ撲殺の時間です、と言わんばかりに男が俺を見た。
目の前の男は細身で、パーマがかかった髪は縦横無尽に跳ねている。
黒い鳥の巣のようなそれは、緊張感にかける。
そして真っ黒の円らな瞳は、子犬を連想させた。
女性的な顔だ。身長は俺と同じぐらいだが、体重は恐らく俺の方がある。
しかしなんだろう、この圧迫感は。
「美濃さんの会社ってさ、不倫とか厳しい?」
「……いくら、ですか?」
「なにが?」
「口止め料。慰謝料っていう言い方でもいいですが」
ここまできたら開き直る。
年上らしく、落ち着いて穏便な方向に持っていきたい。
「俺があんたらに与えられるダメージなんて、お金と社会的地位の喪失ぐらいだから徹底的にやるつもりだけど、お金には実は困ってないんだよね。それに今回十人以上浮気相手がいるみたいだから、ずいぶん稼げそうだし、あんたからはお金はいいや」
なら、何が欲しいのか。
その先、彼が何を言いたいのか分からなかった。
殴らせろというなら、好きにして貰って構わない。
しかし会社にばらされるのだけは、嫌だった。
だらだら粘ついた汗を滲ませながら、伺うように彼を見ると、男は思ったよりも近づいてきていた。
「俺、バイなんでやらせてもらえれば、それでチャラにしてもいいよ。あんた顔悪くないし」
「え?」
「夫のいる女を犯すのって楽しかったでしょ? 妻の浮気相手を雌にして犯すのって、楽しそうじゃない?」
予想外の要求に、思わず時が止まる。
「とりあえず十回楽しませて。そしたら、慰謝料もいらないし会社にも黙っておく。誰にも言わない。それにあんたがなつみと付き合いたいなら止めないよ。どう? よくね?」
思わず、ごくりと唾を飲み込む。
「ちょっと、待ってくれ」
「待ってくれ? あんたは俺にお願い出来る立場じゃないだろ。それで返事は?」
勿論返事はノーに決まっている。
しかし舌は動かない。
慰謝料、会社での信用、弁護士費用、もしかしたら彼らの離婚の調停や裁判にも巻き込まれるかもしれない。
十回のセックスで、それらがチャラになるなら、安いものだ。
だけど男とセックスなんて……。
「迷ってるなら聞く?」
「なにを、ですか?」
「あんたが昨日、俺の嫁に向かって”旦那とどっちがいい?”って聞いてる声。なんならあんたとなつみの上司にも聞いて貰う? あんたの両親に聞いてもらってもいいよ。もしいるなら恋人にも聞かせてあげようか?」
「…………」
両親はまあいいとして、今は決まった恋人もいない。
しかし上司は駄目だ。
そんなことされたら、閑職に飛ばされる。
うちの会社は能力主義だが、モラルに関してはかなり厳しい。
飲酒運転はレッドカードで一発退場、セクハラは程度にもよるがイエローカードで人事部の監視が付く。
不倫でレッドカードはないと思うが、それでも出世の道は遠ざかる。
「早く答えて。俺、午後には大学にも顔出さなきゃならないんだよね」
「……学生さん?」
「院生。あ、うちの研究室、雨之さんのとこに技術開発協力してるよ」
ずいぶん優秀な大学に通っているようだ。
俺はこれから自分より細身で年下の大学生にやられるのか?
いくら憎き間男相手でも、プライドとか考えて欲しい。
いや考えた上での要求か。
俺のプライドをズタズタにするのが目的なら、かなり成功している。
「どーすんの?」
俺は子供の頃、サッカー選手になりたかった。
高校の頃は、ギタリストになりたかった。
ザッカリーモデルのギターが欲しかったけど、高すぎて手が出なかった。
雨之自動車に入社する前はアマノのハルティコが欲しかったけど、入社後に結局買ったのは別のもっと手頃なラインだった。
高すぎる望みはいつだって叶わない。
諦めることにも慣れた。
俺はもう子供じゃないんだ。
思い通りにならない現実に、手足をばたばたしたりはしない。
「や、やさしくして……ください」
悲壮な決意を固めた俺の上に、楽しそうな顔でのし掛かってくるたっくんを見ながら、二度と不倫なんてしないと、心に強く誓った。