「五條さん」
「なんだよ」
「俺ら、なんかできてるって噂あるんスけど」
俺が居残り練習中に転けて以来、五條さんは俺のオーバーワークに気を配るようになった。だからなのか知らないが、ときどきこんな風に部活終わりのストレッチを手伝ってくれる。
しかし、その様を見ていた連中に変な噂を流された。
「はぁ?」
「五條さんが俺の体にべたべた触るせいだと思うんスけど」
「お前のストレッチの仕方が悪すぎるからだ、ろ!」
「ぐ、ぎっ、痛い! 痛い! ちょ、余計に体に悪そうなんですけど、この体勢!」
背後からぐっと乗られて、前屈が限界に達する。
「その噂って、一年の間で?」
「いや、うちの部内で」
「俺に彼女ができないのはそのせいか」
「いや、それは五條さんの顔が」
怖いせいです、と続けようとして余計に体重をかけられた。
「ぐはっ」
「悪いって言ったら腰骨を破壊する」
「かっこいいです! マジで! 抱いて!」
「……、絶対お前の言動のせいだろ」
そう言って五條さんが俺の上から離れる。
は、と息を吐き出す。
試合が近いため、最近は他の先輩方も残って練習をしているので、そんな俺達のやりとりを聞いて、何人かの部員が笑う。
噂にはなっているが、みんなそれが冗談だと分かっている。
「今日何食う?」
五條さんもそこは分かっているのだろう。
だから、あっさりと話題を変えて自分のストレッチに入る。
俺よりも長い腕を背中に回して、筋肉を解しながら「ラーメン以外な」と付け加えた。
「俺の口の中はもう豚骨味しか受け付けないです」
「前回と前々回もラーメンだったろ。ふざけんな」
「いいじゃないですか。五條さんはラーメン屋で他の物食べれば」
「それチャーハン一択だろ」
「チャーシュー丼とか餃子とか」
「ファミレスな」
「えー。決まってたなら聞かないでくださいよ」
「ラーメン屋以外だったら考慮した」
「じゃあ次はラーメン屋で」
「お前、もっと栄養付く物食えよ。だから細いんだよ」
不意に、腰を掴まれた。
「う、あっ」
五條さんは手がでかいから、両手で掴まれると臍の方まで指が来てくすぐったい。
「変な声出すな」
「や、だから、先輩のせいでしょ、できてるって噂!」
「あぁ?」
「俺のこと触りすぎなんですって!」
「そんなことねぇよ。他の奴も触ってるよ」
「男限定で?」
「女は……触れないだろ」
「すみません、なんか可哀想なこと聞いちゃって」
「本気でかわいくないな、お前」
「なんでですか。ファミレスに譲歩した可愛い後輩じゃないですか。今日も散々ロブばっか上げてあげたし。ロブばっか上げてると、肩胛骨の内側の筋肉が凝るんスよね。豚骨のコラーゲンで中和したいなって」
「風呂でマッサージでもしろよ。なんならしてやろうか?」
「えっろいなー。そんなに俺の裸みたいんですか?」
「死ねよ」
そんな俺達を見て、五條さんのクラスメイトが「お前らもう付き合っちゃえば?」と言ってきた。
そのときは、笑って受け流した。
だけどそれが悪かったのかもしれない。
後日、三年の先輩に「五條に告白しろ」といたずらを持ちかけられた。
最初は断ったけれど、結局は逆らうのが面倒で引き受けた。
どうせ、五條さんは本気にはしないだろうと分かっていたから。
それに、これは彼らの憂さ晴らしだ。
コーチの気紛れで五條さんと俺が組んだ先日の試合で、部で一番いい成績を残したから。
でも、俺達は部で誰より練習してきた。
努力したんだ。
その結果、上に行った。
「僻むなら同じだけ努力をしてから僻め」とも思うが、簡単ないたずらに協力して一時的に笑い物になることで、彼らが気持ちを昇華できるなら安い物だと引き受けた。
だけど指示通り、放課後部活前に五條さんを人気のない空き教室に呼び出したときは、引き受けたことを半ば後悔していた。
先輩達は教室の外、窓の下に隠れている。
ベランダで体を縮めている連中は、恐らくにやにや笑っているだろう。
「女子からの呼び出しならまだしも、一体なんだよ」
待ち合わせ時間を五分過ぎて、面倒臭そうにやってきた五條さんは俺を見ると、そう口にした。
「いや、ええと、伝えたいことがあってですね」
台詞は、予め先輩方が考えてくれていた。
「好きです。俺と付き合ってください」だ。
これ以上ないぐらいシンプルで、誤解しにくい台詞だ。
「お前、まさか俺が貸したDVDまた割ったとかじゃないよな?」
「違います。つーか、DVDは謝ったじゃないですか」
すげーいいから、って先月渡されたDVDは古いAVで『show撃ナマ放送!! 女子アナにボクのマイクを差し込んで』なんてタイトルが付いていた。補則すると、女子アナのアナは「穴」にルビが振ってあった。
借りた以上見なければならなかったが、女優が好みじゃなかったので、パソコンのウィンドウを小さくしてそれを見ながら、別のウィンドウでオンラインゲームをしていた。
『らめぇ、らめぇ! 激しいのぉ!』なんて喘ぎ声を聞きながら、屈強なモンスターを倒すのは我ながらシュールだった。
ただ、取り出そうとして過ってディスクを落として、拾うときに椅子のキャスターで轢いてしまったため、それは二度と再生できなくなった。
頭を下げつつ新しく買った別のアダルトDVDと一緒に先輩に返すとき、怒るよりも悲しまれた。
生まれて初めて OTZ って実際にやってる人を見た。
どうやら相当お気に入りだったらしい。
「じゃあ何だよ。わざわざ呼び出してまで話したいことって」
「いやー……その」
嘘の告白だが、いざしようとすると緊張する。
「矢代? 何かあったか?」
黙り込んだ俺を見て、それまでの苛立ったものから心配そうなものに口調が変わる。
その声音に、今まで感じていなかった罪悪感がちくちく刺激された。
「おい、まさか誰かにいじめ……」
「好きです!」
遮って口にしたのは、これ以上罪悪感が増える前に事を済ませてしまおうと思ったからだ。
俺が怒鳴るように言った瞬間、五條さんが固まる。
たぶん俺だって、同じことを五條さんにやられたら、声もなく固まるだろう。
しかしミッションはまだコンプリートしていない。
息すら忘れている相手を見て「俺と付き合ってください!」と続けた。
「……は?」
目に浮かぶのは、困惑だ。
その困惑が消えると、五條さんは気まずそうに俯いてから「あー……」と声を出す。
まさか騙されてくれるとは思わなかった。
意外と簡単に信じ込んだ相手に、俺の方が戸惑う。
普段は横暴なのに、俺が傷つかないような断り文句を探そうとしている様子を目にして、何故か急に胸の奥が痛んだ。
困った顔を見ていたら、指先が冷えていく。
嘘でも、断られたくないと思った。
「あ、し、信じました?」
気づいたら、そう口にしていた。
「は……?」
「えっと、冗談、です」
「…………あぁ?」
途端に低い声を出して睨み付けてくる五條さんを前に、先輩達が早く助けてくれないかな、とベランダの方に視線を向けて「いや、その、ごめんなさい」と素直に謝る。
「てめぇ、矢代」
「ほんと、すいません。ごめんなさい」
「殺す」
ぐっと、胸座を掴まれる。
絶対怒っていると思って恐る恐る表情を確認したが、目があったときの五條さんはほっとした様子だった。
俺の告白が嘘だと分かって安堵しているのだと気づき、蟠りを覚える。
本気にされて「分かった。付き合おう」なんて言われたら困るのに、そんな風に安堵されることに引っかかりを感じた。
俺が自分でも釈然としない不快感の正体を探っていると、ようやく先輩達が姿を現す。
「五條ぉ、そんなに怒るなよ」
「そうそう、俺らが矢代にさせたんだって。でも、お前よく信じたよな」
にやにやしながら近づいてきた三年を見て、五條さんは低い声で「こういうの止めてくださいよ」と口にした。
「なんだよ、ちょっとしたいたずらじゃん」
「矢代、ネタばらし早すぎ」
「もっとさぁ、五條がどう断るかまで引っ張って欲しかったよ」
勝手な事を話す先輩達から、もう一度五條さんに視線を戻す。
五條さんは三年相手に我慢して笑顔を作っていた。
”頑張って怒りを耐えている”というその顔を目にして、先輩達は言葉を失う。
見た目が怖いっていうのは、こういうときに便利だ。
誰だって、剛速球をバンバン打つ強肩タイプと喧嘩したいなんて思わないだろう。
「ま、まぁ、そこそこ楽しかったよ」
「じゃあ、部活でな」
早々にこの場を立ち去った方がいいと判断した先輩達が、俺をスケープゴートにして出ていく。
気まずい空気の後始末を押し付けられて、俺は誤魔化すようにへらへら笑った。
二人きりになってから、もう一度「すみません」と頭を下げる。
すると五條さんは溜め息を吐いて「こういうの、やってもいいけどせめて事前に教えろ」と呟いた。
「あの、怒ってないんですか?」
「三年の先輩方の”お遊び”に一年のお前が逆らえないだろ。相手が俺なら、別に構わねぇよ。でも他の二年にやるなよ。年下のお前にテニスで負けた上に笑い物にされたら、誰だって面白くないだろ。三年指示だって分かっても、許せない奴もいるだろうし」
「……先輩は?」
「あぁ? 俺はお前に負けてねぇだろ」
そうじゃなくて、本当に怒ってないのか知りたかったが、特に含みのない顔を見ていたら、杞憂だと気づく。
だけど、五條さんの困った顔を見たときに胸の内側に生まれた、あの不快な感情は消えて無くなりはしなかった。
「……確かにスタミナに物言わせて辛うじて勝ってますよね」
そう言った瞬間、五條さんが俺の頭を乱暴に掴む。
「っ、いた、いです」
「あとな、笑い物にされんのもあれだけど、マジでとられたらもっと困るから、それも合わせてやめろよ。お前、変に顔が良いんだから、男でもいいって思ってる奴がいるかもしれないだろ」
「変に顔がいいって、それ、褒めてるんですか?」
「だって女が好きそうな顔じゃん。そういえば生意気にも、読モやってんだって?」
「いや、あれはいつも歩いてると適当に写真撮られるだけで……」
「でも雑誌に載るんだから、普通よりは顔良いってことだろ?」
「え? あれそういうんじゃないですよ。服で選んでるんじゃないですか? 普通の以下の顔のやつも結構載ってません?」
「俺は一回も撮られたことねぇよ。なんだよ、俺が普通以下のやつよりも以下って言いたいのかよ」
「言ってないです! 被害妄想ですよ、先輩」
ぐぐっと、頭を掴む手に圧がかかる。
逃れようとすると「だから、とにかく止めとけよ」と窘められた。
年下の兄弟がいるせいか、ときどき兄貴ぶってこんな風に叱ってくる。
「ふぁ、い」
「はい、って言え」
「は、い」
ようやく手が離れる。
「今日部活終わったら付き合えよ」
「えー」
「騙したんだからそれぐらいしろ。辛うじてじゃなくて圧勝してやる」
「はぁ」
「はい、だろ」
「はい」
普段通りにそう返しながらも、内心は変な気分だった。
いつも通り笑えてると思うが、意識しないと眉尻が下がって情けない顔になりそうだ。
胸の裡で先程からぐるぐる渦巻いている気持ちが、何なのかよく分からない。
今まで誰かに抱いたことのないその気持ちに動揺しながら、つい大きな手を目で追う。
五條さんはやたらと俺に触れてくる。
今回の件で、それがなくなったら嫌だと思った。
胸の中の感情の名前はよく分からないが、その気持ちだけはやけにはっきりとしていた。