絶対に無理だと思っていたから、告白する気も起きなかった相手に告白されたのは、夜も随分更けた頃だった。
「なんか俺、お前のこと好きなんだよね。やばい方の意味で」
先輩が告白してきたとき、俺はピザの上で逆さまにした瓶から中身が出てこないことに、苛立っていた。
詰まってんのかよ、使えねぇな、と細長い瓶の中でちゃぶちゃぶ揺れる赤い液体を睨みつけていたので、つい「あ?」と威嚇するような声が漏れた。
ごにょごにょ言っていたので、上手く聞き取れなかったせいもある。
その瞬間、先輩の唇は「ひ」という形で固まった。
情けない態度に呆れながら「もう一回言って貰えます?」と不快感を隠さずに口にすると、心底弱った顔で「だからさ、お前が、好き、なんだって」と歯切れ悪く、相変わらずごにょごにょ言った。
「はぁ……」
予想外すぎる台詞に、何の冗談だよ、と思いながら目の前の男を見る。
それが冗談じゃないなら、今まで言うべき場面は何度かあった。
例えば先輩主催のフェスで、浜辺からホテルまで二人きりで歩くときとか。
じゃなきゃ俺が先輩の家に泊まって深夜まで一緒に過ごすときとかに。
「先輩ってはきはきしてるイメージ持たれてますけど、俺の前じゃ結構ふにゃふにゃしてますよね」
「う……、だって、好きな相手の前じゃ誰だってテンパるだろ」
好き、という言葉を言われても、なんだか実感が湧かなかった。
片想いの相手からそう言われているんだから、もっと喜ぶべきなのに、胸の内側にあるのは喜びではなく、苛立ちに似た何か別の感情だ。
「先輩が俺のこと好きになったのって、去年の春頃ですか?」
感情の整理も兼ねて、以前から気になっていたことを聞いてみる。
あの頃から今日まで、先輩の態度はときどきやけにぎこちない。
「え、……なんでそう思うのかな?」
「あの頃、やたらうざかった。今もたまにですけど」
「思いやりとか優しさをオプションで搭載してください」
「俺、先輩ほど容量多くないんで、余計な物は搭載できないんですよ」
「お前わりと人付き合いが不器用なんだよな。部の人間関係はしっかりしてるのに」
「部は基本縦割りなんで。力関係はっきりしてて、楽なんですよね」
「逆に俺は縦割りって無理だわ……って、お前、上手く流したな。まぁいいけど」
先輩は前半は不満げに、後半は寂しげに言った。
だけどふっと息を吐いたときは、嫌な用事が終わってほっとしているように見えて、苛立ちが増す。
タバスコは諦めようと、カンっと音を立てて瓶を置く。
先輩は音にもびくついた後で、誰もいない隣のテーブルから持ってきたタバスコを俺の前に置いた。
「どーも」
先輩は、こういうところに良く気が回る。
「お前本当に辛党だよな」
「先輩は甘党ですよね。いっつも甘い物ばっか食ってますよね」
「まあね。そこらの女子よりスイーツに詳しいから」
「自慢にならないと思いますけど」
関係ない話をしながら、たっぷりタバスコのかかったビザを食べる。
さすがにかけすぎた。自覚はないが、それなりに俺も動揺していたらしい。
食べれば食べるほど舌がひりつくそれを咀嚼して、喉の奥に送り込む。
たぶん動揺は、顔には出ていないだろう。
先輩と違って、俺の感情は顔には出にくい。
「一応、聞きたいんですけど、なんで今いきなり告白したんですか?」
大会で優勝後、祝賀会を抜けてのファミレスなので、俺は上下ジャージ姿だ。
先輩の終電に合わせて、盛り上がってる連中から離脱した筈なのに、結局間に合わずに駅前のファミレスにいる、というのが現在の状況だ。
駅前の雑居ビル一階の深夜のファミレス非喫煙席。
ドリンクバーから遠い、窓際のブース。
テーブルの上には飲みかけのソーダと、飲みかけのオレンジジュース。
食べかけのピザ、食べかけのパフェ。
因みにパフェは先輩が注文したものだ。
この先の事は決めてない。
どこかに行くにしろ、タクシーを拾って先輩を帰すにしろ、それは飯を食ってから決めればいいと、特にそこについては触れずに、先輩が告白してくるまでは今日の試合のことを話していた。
向かいの先輩は仕事の後で祝賀会に駆けつけてくれたので、スーツを着ている。
スーツは紺地に細いピンクのストライプが入っていた。
胸元には同じトーンのピンクのポケットチーフがささってて、ラベルピンがキラキラしてる。
シャツの胸元ははだけ、ネクタイはない。
派手な色の髪と合わせて、夜の仕事をしているようにしか見えない。
この人は去年、大学に在学しながらもなんだかよく分からない会社を作った。
そして現在、なんだかよく分からない社長をしている。
本人曰く、イベント会社らしいが、実に怪しい。
昔から、無駄に行動力があるんだ。この人。
しかも稀に見る幸運の持ち主でもある。会社はすぐに潰れると思っていたが、前回クラブを借り切ったフェスでかなりの利益を上げたらしい。
「いや、お前が優勝したら言おうかなって」
「普通、それって自分が勝ったら、とかじゃないんですか」
呆れながら食べかけのピザを口に運ぶと、先輩は「いや、俺もさっき白線から出ないで交差点渡れたらって思ってたんだよ」と打ち明けた。
「ああ、それで……。点滅してるのにのろのろしてるから、マジで蹴り倒してやろうと思ってたんですよね。というか、それ俺の優勝と同レベルのことなんですか?」
「……いや、前からね、言おうとはマジで思ってたんだけど、怖いじゃん」
「何が?」
「だって……お前さぁ、71kg級の優勝選手じゃん、柔道の。好きですって言った瞬間、キモイって背負い投げられそうじゃん。だから人目があるところがいいと思いまして」
それでファミレスか。
納得したような、できないような。
「びびりまくってんじゃないッスか。なんで告白すんの? それで」
本気で意味が分からずに尋ねたら、先輩は少し目元を染めてから「だって、好きだし」と言った。
俺だって、この人のことが好きだ。
だけど一つ問題がある。
俺はこの人に抱かれたいと思っているが、たぶんこの人は逆だ。
でも別にそれでもいい。
先輩が他の奴と付き合うよりずっといい。
女はいつも、馬鹿みたいに先輩に寄ってくる。
この人の恋人という地位が手に入れば、俺もいちいちそいつらに苛立たなくて済む。
先輩は色々甘いしチャラいが、浮気なんかのモラルに関しては人一倍厳しい。
俺がこの人と付き合い続ける限り、この人は他の人の物にはならない。
しかし俺は答えを決めたのに、先輩は肝心のその先を言わなかった。
「それで?」
だから仕方なく、急かすように水を向ける。
「それでって、別に?」
「別にって、どうなりたいんですか?」
「どうなりたいって、別に?」
「……好き、の後は?」
「ん〜?? いや、好きって言いたかっただけ」
「はぁあ?」
思わず低い声を出すと、先輩はびくついたように体を後ろに反らす。
「なんだよ、そんなに怒るなよ。別に、付き合えとかは言わねぇよ」
「言えよ」
反射的にそう言うと、先輩がますますびくつきながら「なんでだよ。絶対怒るじゃん。もう怒ってんじゃん」と、ちらりと脱出経路を確認する。
ヘタレすぎんだろ。
なんなの、この人。
「あるだろ、普通。好きだから、何とか、好きだからどうとか」
「いや、ちょっと意味が分からないです」
なんで分からないんだよ。馬鹿か。
いらっとして睨むと「俺なんか投げても楽しくないよ」と言われる。
「俺、投げんのより締めるほうが得意なんで」
「俺、投げられるのも締められるのも得意じゃないんで」
思い出せば、この人はわりと最初から俺に対してびびりだった。
この人と俺が出会ったのは、高校三年のときだった。
きっかけは学祭の前日、制作中の看板のペンキが乾かないうちに持って移動していた先輩が、俺にぶつかってきたことだった。
そのせいで学ランの右肩から袖口にかけて、べっとりと白い汚れがついた。
『ごめん! え? 高校生? なんで? 面接? マジで?』
控え室から面接会場に向かう途中の出来事だった。
先輩は結局面接会場までついてきて、服にペンキがついた経緯を説明した後で、「この子、すごく良い子みたいなんで、お願いします」と唖然とする教授達の前で頭を下げて、俺の試験が終わるまで外で待っててくれた。
『その格好じゃ帰れないよな。ちょっとサークル室で待っててくれない? 替えの服持ってくるよ。あと、それクリーニング出して来ちゃうからさ、変わりに俺のジャージ着てて』
『いいです。俺、家は北海道なんで、クリーニング取りに来るのは遠すぎるから』
『明日までにはできるんじゃないかな。今日は何か予定有る?』
『帰るだけですけど』
『チケットはとってあるの?』
『まだですけど。どうせこの時期は混まないし、面接が何時に終わるのかよく分からなかったから』
『じゃあ俺の家泊まりなよ。で、明日ジャケット受け取って帰ればいいじゃん。お詫びに観光地案内もするし。あ、俺の名前は___』
当時、あまりのなれなれしさと警戒心の無さに驚いた。
部屋に泊めて貰ったときに「柔道をやってる」と言ったら、『ペンキの件、ほんとごめん。投げないで』と再度謝られた。
どうも、柔道部員に何かトラウマでもあるらしい。
だけどびびる癖に、北海道に戻ってからも『面接受かった?』『北海道遊びに行っていい?』なんて下らないことでコンタクトを取ってきた。
そういう連絡を頻繁に受けて、俺が大学に入学する頃にはわりと仲の良い友人関係になっていた。
しかし、先輩にとっては普通のことらしい。
この人はそんな風に作った友達が馬鹿みたいに多い。
一緒にいる間は、常にスマホが震えているし、着信を示すランプもいつも光っている。
だけど彼女はいない。
二年前まではいたけど、何故か突然ふられたらしい。そういえば、その彼女に振られた後で自棄気味にバイト代を注ぎ込んだロトで大金を当てたんだ。記憶を辿ればそのときに『彼女にはふられたけど、俺は今ついてる! だから絶対起業すべきだ! 目指せ億万長者!』と叫んでいた。
傷心旅行は聞いたことがあるが、傷心起業は初めて聞いた。
馬鹿だと思った。
「それで、なんで俺なんですか? 俺男ですけど」
尤も、その疑問は俺にも当てはまる。
俺は女はあんまり得意じゃないけど、ゲイじゃない。
性欲は普通にあるし、その対象は女だけど、これといって誰かを特別視したことはない。
高校の頃には付き合った奴もいたけど、俺が怪我で高校二年と高校三年の頃に公式試合に出られなくなって、鬱々としていた時期にはなれていった。
当時、自分のことでいっぱいで、彼女のことを思い遣る余裕なんてなかったし、不安がって泣く相手を慰めることもしなかった。
だから、ふられたのは自業自得だ。
大学に入って再び公式試合に出られるようになってからは、もうすでに俺は先輩が好きだったので、それ以外の奴と付き合う気にはならなかった。
何で先輩だよ、もっと良さそうなの他にもいるだろ、と自分に問いたい。
でも、俺より全然弱い癖に、二人で歩いているときに絡まれたら、絶対に俺の前に出ようとするところとか。
困ってたり落ち込んでたら、直接そこに触れずに『気分転換したいから付き合って』なんて台詞で連れ出してくれるところとか、そういうところに気付けば落ちてた。
ゲイでもないのに抱かれたいなんて思うのは、この人に甘やかされるのが心地よくて、嬉しいからだ。
自分自身、そんな風に考えてしまうのは気持ち悪いのだけれど。
だけどたぶんそんなの、先輩にとっては当たり前の行為で、他の奴にもやってたんだろう。
実際、俺が先輩に落ちたのは、先輩が俺に惚れるよりも前の話だ。
「なんでだろうね」
「考えろ」
段々苛々が募ってきて強めに言うと、先輩は口元を引きつらせながら「いや、うーん、しっかりしてるから?」と首を傾げた。
「しっかりしてるから?」
繰り返すと、俺がその返答が気に入らないことに気づいた先輩は、弁解するように「ほら、お前ってさ、なんていうか柔道強いし! オリンピック行けるかもって話だし! あと、顔もいいじゃん、で、ええと、そう、字が綺麗! 朝に強い! 麻雀も強い!」と口にした。
俺を好きな理由ではなく、俺を褒めることに方向性がシフトしているような気がする。
そのスキル、恋人にいらないだろ。
「麻雀、っすか」
先程より鋭く睨むと、先輩は一瞬「助けて」という顔で近くを通りすぎていったウェイトレスを見たが、彼女は気付かずにチーズインハンバーグを入り口付近のサラリーマンの元に運んでいく。
先輩は助けが得られないので、ない頭を絞って考えてから「ええと……寝てるときに抱きついてくるのが、かわいい」と言った。
「はぁ?」
「いや、お前からだよ? お前から抱きついてくるんだからな? 雑魚寝とかしてるとさぁ、絶対抱きついてくるし。しかもわざわざ俺のこと探してくるんだよ」
「はあ」
知らなかった。
普段抑えてる反動が、無意識のときに出ているんだろうか。
「それは、関節技ありですか?」
「うん……一回だけ、わぁかわいいなぁ、と思ってたら締められたよ。あのときは他の連中に助けて貰ったんだけどさぁ、あれ、マジで意識飛びそうになるな。鳴っちゃいけないところの骨が鳴ったよ」
「どんな技でした?」
「なんか無理矢理背中を反らされた上に、首を思いっきり腕で絞められるやつ。ばあちゃんが川の向こうで手を振ってるのが見えたよ。うちのばあちゃん死んでないけど」
先輩はそう言うと「ああ、あと、色々言いながらも付き合ってくれるところ」と笑う。
「今日も終電逃したりさぁ、俺が白線の上歩いてるの見ても、待っててくれたりしたじゃん。今もファミレスにいるし。お前の寮、ここからなら歩いてでも帰れるじゃん」
確かにそうだ。
寮にも門限はあるが、それほど厳格ではない。
門限より、部外者を入れることのほうが厳しい。
だからこうしてファミレスにいるわけだが。
「だからそういうところ、好き、かなって」
「で?」
「でって、だからないって。もう言わないし」
「言えよ」
「なんでだよ。やだよ、こえーよ」
意識して手を出したことは一度もないのに、そこまで怯えられるのは不本意だ。
大体、これでは話が進まない。
「あんた、そんな怖がってるくせに俺に抱かれたいの? それともそういうのなしで好きって言ってる?」
「あー……お前、そういう、シモネタとか嫌いだったじゃん」
「大事なことなんで」
「うー……、言わなきゃダメな話? 投げない?」
「締めるのはありなんですか?」
「物理的攻撃は全部なしです。精神攻撃なら……なんとか耐えます」
「わかりました。どうぞ」
促すと、先輩はまた「うーぁー………」と情けない声をあげて、テーブルの上に突っ伏した。
派手な色の髪が揺れる。
柔らかそうな色なのに、固めてある髪はとても触り心地がわるそうだ。
「えー……、想像の中では、だ、い、てます、ので、そういうのも、ありで言ってます」
その返答には、正直告白されたとき以上に驚いた。
先輩は突っ伏したままだ。
目を見て言う勇気はないらしい。
どこまでヘタレだ、こいつ。
「先輩が俺を?」
「はい、すみません」
「どんな風に?」
先輩は「あー」と言ったが、吹っ切れたのか「柔道着姿のお前のことを羽交い締めにして、柔道場でバックからとか」と口にする。
「先輩が俺の後ろを取れるとお思いで?」
「はい、すみません」
「そこに至る前に、何らかの技で先輩は天国に旅だってますよ」
「はい、すみません」
「他には?」
「もう、勘弁してください」
「全部吐け」
先輩は本当に渋々といった様子で「こんな風に外ではきついけど、一緒に家に帰った途端にめちゃくちゃデレて迫ってくるお前を拒否れずに、玄関で、とか、ね」と掠れた声で言った。
「それで?」
「…………墓標には”志半ばにして散る”と刻んでください」
「そんなこと聞いてねぇんだよ、それで?」
先輩はそろそろと顔を上げてから「もうしません。ごめんなさい」と呟く。
「……」
望みの言葉を引き出せずに黙り込んだ俺に、先輩は気まずそうな顔で「そろそろ帰る?」と言った。
この話はここで完全に終わらせる気らしい。
冗談じゃない。
ふざけんな。
期待させた後で、なかったことになんかさせない。
「えっと、とりあえず、俺は帰ろうかな」
伝票を手に先輩が席を立ったので、俺も立つ。
びくっと大袈裟にこちらを見た先輩に「これから先輩の家に行きます」と口にする。
先輩は青ざめて「会社宛の、遺言だけは書かせてください。業務に支障がでますので」と敬語で頼んでくる。
ああ、くそ、と思いながら睨み付けた。
ファミレスを出てからもびくびくしている男がいい加減鬱陶しかった。
意気地がねぇ、と思いながらその襟首を掴む。
「ちょ、おっわっ」
だけど、結局の所絶対に無理だから告白しないと決めていた俺よりも、口にした分この人の方がそういう意味では度胸がある。
びくびくしているから、あまり認めたくはないけれど。
人気のない道から路地に強引に引きずり込んで、びびってる相手を壁に押し付けた。
それからそのまま、かぶりつくように薄い唇を塞ぐ。
でも、先輩は微動だにしないし、指先もいつまでだっても背中には回らない。
だから仕方なく唇を離すと、驚きを体現するように長い睫に縁取られた瞼をぱちぱちと瞬かせていた。
「これからあんたの家に行って、理想通りに振る舞ってやるから、あんたも俺の望む通りの台詞を言え」
状況が分かってない先輩の唇をもう一度塞ぐと、しばらくしてからびっくりするほど強い力で俺のことを抱き寄せてきた。
「お前の唇、辛すぎる」
望んだ台詞ではなかったけれど、その掠れた声を聞いて、ようやく。
本当にようやく、好きな相手に告白されたという実感が押し寄せてきて、情けないことに体がびくりと跳ねるように震えた。