2013/10/20

la noria  03







  旅を終えて日常に戻っても、しばらくはぼんやりしていた。
  時差惚けというよりも旅ぼけだ。
  日常に適用するまでいつも二、三日かかる。
  それでもゼミの発表やバイトをこなすうちに徐々に頭も、警戒心も通常運転に戻っていく。
  けれど海斗のせいで一月経ってもあの夜のことだけは、なかなか頭を離れなかった。

  いや、一月じゃなく何年も。
  忘れられないまま大学を卒業して、俺は内定を受けていた会社に就職した。

  そこでは最初、大阪支社に配属された。

  毎日スーツを着て定時に出勤する生活を自分がまともにできるなんて、学生時代には想像もつかなかったが、案外やればできるものだ。

  学生の頃はバイトで金を貯めて、年に一度は必ず海外に行っていた。
  毎年どこに行こうかと考えるのが好きだった。
  行ってない国はまだたくさんあるが、しばらくは行く気にはなれなかった。
  仕事が忙しいというのもあるし、新人が有給で長期休暇を取れなかったという理由もあるが、一番は海斗とした以上の旅ができるとは思えなかったからだ。

  当時は海斗の奔放ぶりに嫌気がさしていたし、振り回されることにも疲弊していたが、思い返せばあんなに”非日常”を味わえる旅はそうない。
  予算もないのに詰め込みすぎたクオリティの低いC級映画みたいだったあの旅を、仕事に疲れて立つ駅のホームで不意に思い出すことがある。
  
  記憶の中の失敗に笑いを漏らすと、最後の最後で経験した、とびきりの非日常まで蘇って、苦い気分になる。

『俺の体、すげぇ良いらしいんだよ』

  認めるのは癪だが、その通りだった。
  美化されているのかもしれないが、あの夜のことは今も鮮明に覚えている。

  しかし連絡する術はないし、そもそも苗字すら知らない。
  リッジウッドからも、恐らく引っ越してしまっただろう。

  そんなことを考えながら、別れから三年が経った頃、俺は東京本社勤務になった。
  それまで付き合った恋人達と長く続かなかった責任を、あの奔放な男に求めるつもりはないが、それでもあの夜に一因があるのは確かだった。

  もう、覚えていても仕方ない記憶だが。
  







「もうそろそろ出てきても良い筈なんだが」


  発着予定を見ながら懐かしい記憶を辿っていると、部長が苛立ち混じりにそう口にする。

  旅の事を思い出してしまうのは、久しぶりに空港に訪れたせいだ。

  卒業旅行はゼミの仲間と電車で国内を巡ったので、空港に来るのはあの夏の終わりにアメリカから帰ったとき以来だ。

  ゼミの仲間との旅行はそれなりに楽しかったが、スリルもハプニングもなくて、予想外のことは何も起こらなかった。

  それを物足りなく感じるのは、ジェットコースターに慣れてしまったせいだろう。

  きっと、あれ以上印象に残る旅はないだろうな、と記憶の中で未だぼやけることのない年上の同行者を頭から追いやって、ゲートに視線を移す。

  わざわざ中核会社から来日するCTOを迎えに来たというのに、相手は一向に姿を現さない。約束の便に乗っているのなら、もうとっくにゲートから出てきても良いはずだった。

「遅いな」

  時計を見て、上司が口にする。

「どんな方なんですか?」
「日系だ。背はお前ぐらいだったかな?  まだ若いが、礼儀や言葉遣いに厳しい上に能力がない奴は容赦なく切るから向こうでも恐れられてるよ。粗相のないように気を付けろよ。何しろ、潔癖で融通が利かないって話だからな」

  部長の言葉に頷いてから、視線を戻す。
  待ち人が来たのはさらに数十分後だった。
  禁煙を強いられてより一層苛立ち始めた上司が、ゲートを見て「来たぞ」と呟く。

  彼がそちらに歩き出したので、俺も慌てて後を追い掛ける。

  上司が話しかけた相手は、黒い細身のスーツを着ていた。
  白いシャツは長旅の後なのに皺一つ無い。
  もしかしたらゲートの向こうで、着替えてきたのかもしれない。
  ネクタイは濃い青色だった。
  眉毛にかからないほど短い前髪は、整った顔を余すことなくさらしている。

  目が会った瞬間、言葉もなく固まった。
  相手も驚いたように瞬いたが、年齢が上の分、向こうの方が回復は早かった。
  
  なんで、どうして、と言葉にならない質問が頭の中でくるくる回る。
  そんな俺を見て、目の前の男はこの偶然を楽しむように瞳を煌めかせた。

  海斗はゆっくりと、まるで全てが予定通りであるかのように微笑んだ。



「寂しかったか?」



  その言葉と共に歯車が、高揚を連れてもう一度回り出す。
  俺は確かに、その弾むように軋んだ音を聞いた。

















   
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