話をしていたのは最初だけで、最後はお互い黙ってただ浜辺で海を眺めていた。
随分長いことそこにいたので、服に潮の匂いが着いてしまった気がする。
宿の主人に教えられた店に行ったのは、薄暗くなってからだった。
場所が分からずに、何人かに道を聞いた。
年輩よりも若い連中の方が、知っている確率は高かった。
店は繁華街の外れに位置していた。
コンクリの素っ気ない外観には、ネオンサインで観覧車だか水車だか判別の着かないものが描かれている。
赤と黄色、緑のネオンを見上げて、海斗が観覧車の話題を出したことを思い出す。
もしかしたら店名は観覧車という意味なのかもしれない。
そんなことを考えながら店内に足を踏み入れる。
若い客が多かった。
賑やかすぎて音楽が聞こえない。
定番のモヒートを頼んで、カウンターを離れて落ち着く場所を探し、店内をぶらぶらと歩いた。
海斗は早速、ビールの小瓶を片手に壁際で綺麗な女を口説き始める。
女は短い黄色のパンツに、水色のタンク姿だった。小麦色の肌は扇情的で、後ろで縛った髪が笑うたびに僅かに揺れる。
店に入って五分足らずで相手を見付けた海斗に呆れて視線を逸らすと、横にいた女のグループに「あなたさっき、海に居たでしょ?」と声を掛けられた。
「ああ」
「あっちの彼も」
「連れなんだ」
女達は顔を見合わせて意味ありげに笑った。
その微笑みの意味が分からずに、モヒートを口にしたときに「彼に注意してあげた方がいいわよ」と、一番年嵩に見える女が言う。
「彼が口説いてる子の彼氏、あそこにいる奴だから」
そう言われて部屋の隅を見ると、男達が楽しそうに何か盛り上がって話している。
自分の女に手を出されて、笑って済ますような平和主義者には見えない。
今はまだ海斗の存在に気づいていないが、気づかれたら揉め事に発展しそうだ。
「教えてくれて助かった」
俺がそう言うと女達はにこりと笑ってから「お礼はビールでいいわよ」と笑った。
だからモヒートを飲み干してから、ドル紙幣を置いて海斗の方へ向かう。
この町には今日着いたばかりだ。
明日出発するつもりだとはいえ、穏便に済ませたい。
「海斗」
声を掛けると、海斗は「邪魔するなよ」と言った。
「二日連続殴られるのはいやだろ? 俺も二日連続仲裁に入るのはいやだ」
そう言って、店の隅の男達の方に視線を向ける。
海斗は一応俺の目の先を追ったが、それがなんだと言わんばかりに、女に向き直ると「店を変えないか?」と話しかけた。
海斗が喋ったのはスペイン語だったから、意味は想像だ。
だけどたぶん合ってる。
「俺は揉めるのは嫌だからな」
そう言って、空になったモヒートのグラスを置いて外に出た。
海斗が面倒をおこす前に忠告するぐらいの親切心はあるが、わざわざ巻き込まれてやる義理はない。
飲み屋は他にもある。
別れの夜だ。
海では多少しんみりとした雰囲気だったから、酒を飲みながらこの一ヶ月を振り返るつもりだったが、海斗にそんな情緒を求めたのは間違いだったらしい。
呆れながらも、町中をホテルの方へ歩く。
適当に途中にある店に入って飲み直そうと思った。
浜辺の近くの屋台で買った肉入りのサンドイッチのお陰で腹は膨れていたが、飲み足りない。
「博仁」
野良犬を避けて壁際に寄ったときに、海斗の声がする。
振り返ると、ビールの小瓶を手に近づいてきた。
揉め事に発展しなかったことに、ほっとした。
「折角、可愛い女だったのに」
「じゃあ戻ってやり直せよ。介抱はしないからな」
俺がそう言うと、海斗は「大人しく従ったんだから、ビール奢れよ」と口にする。
さすがにもう一度、店に戻って口説き直す気はないらしい。
こいつは相手に不自由しないから、先程の女にそれほど執着もないのだろう。
可愛いと言ったが、相手の顔を覚えているかどうかも怪しい。
そういえばこの一ヶ月の道中、こいつが寝た相手の顔を覚えていなかったことが原因で、問題に巻き込まれたこともあった。
「今日はもうあんたに対する優しさは使い果たしてるから無理だ」
「お前の優しさって、コップ一杯分ぐらいしかないもんな」
「あんたよりはある。大体、夕食はあんたが奢る予定だったろ」
「よくそんな昔のことを覚えてるな」
「数時間前だ」
鳥頭、と口にしようとして止めた。
認めるのは癪だが、たぶん頭はこいつの方がいい。
「あんたってもしかしてセックス依存症?」
「普段抑圧されてる分、休暇中は開放的になるだけだ」
「休暇中って……、あんたが真面目に仕事したり勉強したりする姿が想像できないんだけど」
「まぁ、真面目にはしてねぇな」
海斗は近くのバーの看板を見上げて「ここにするか」と笑った。
歩き回る気もなかったし、賑わっているようだから異論はなかった。
店内に入ると、海斗が品定めするように店の中に視線を巡らせる。
「揉めるなよ」
もう一度釘を差してから、別れてカウンターへ向かう。
今度はモヒート以外の酒を頼んだ。
スナックを食べながら、グラスに口を着ける。
海斗は意外にも、すぐに俺の隣に座った。
その後も何人かの女や男と話していたが、俺の傍から離れることはなかった。
問題のある相手とじゃなきゃ、別に五月蠅いことを言うつもりはない。
そう思いながら海斗と話している女の連れと会話して、暇を紛らわせる。
程良く酔ったところで、海斗に「俺は先に帰るよ」と声をかけた。
「ん」
海斗は言葉通り、ここの会計を支払ってくれた。
この国に来たときは分厚かった財布の中のペソは、明らかに残り少なくなっているようだった。
日本は円しか使えないが、他の国はいくつかの通貨が流通してることはよくある。
キューバもそうだった。
ただ、どちらかと言えばドルの方が有り難がられることが多い。
ドルでの支払いを受け付けていない場所もあるが。
「俺も」
海斗がそう言って立ち上がると、女達は残念そうに「まだいいでしょ?」と口にする。
「いや、明日早いから。話せて楽しかった」
海斗が俺の背中を押して店をでた。
「いいのか?」
思わず日本語で尋ねる。
今まで海斗がそんな風に俺を優先したことはなかった。
「ホテルの場所覚えてねぇから、お前とじゃなきゃ帰れない」
やっぱ鳥頭。
欠伸を噛み殺しながら、だらだら丘を登る。
今日はずいぶん歩いたので、眠い。
もしかしたら海斗も疲れているから、あっさりと女を諦めたのかもしれない。
無人の受付で声を掛けると、しばらくして宿の主人が出てくる。
明日の朝の出発時間を聞かれて、適当に答えてから鍵を貰って階段を上った。
通りすぎる部屋のドアの向こうから、音楽や人の喋り声が聞こえてくる。
陽気な見知らぬ宿泊客は、扉の向こうで俺の知らない言葉を話していた。
「海斗、先にシャワー使っていいぞ」
酒を奢って貰ったので、シャワーを譲った。
しかし海斗は「面倒だからお前が先でいい」と口にする。
その言葉に甘えて、バスルームに入った。
タイルはとこどろこと欠けているし、壁の塗装は剥げている。
萎びた向日葵みたいなシャワーを見て、蛇口を捻った。
水しか出ないが、夜でも温いのでそれほど問題はない。
タオルがないので、着ていたTシャツで体を洗う。
これをやると、Tシャツも一緒に洗えて、都合が良い。
履いていたデニムと下着も洗った。
勿論、タオルヒーターなんて気が利いたものはない。
新しい下着を履いて、濡れた服を手に部屋に戻り、リュックの中からヒモを通した洗濯ばさみを取り出す。
自作のそれは、正直かなり重宝している。いらなくなったら迷いなく捨てられるのもいい。
バルコニーに出て、適当な所にヒモを結んで即席の洗濯物干しを作り、濡れた物を干す。
キューバはそれほど治安が悪くないので、盗まれることはないだろう。
そもそも盗人心を擽るような服じゃない。
部屋に戻って自分のベッドに横になる。
明日の列車の時間は、浜辺から最初の飲み屋に向かう途中で駅に寄って尋ねておいた。
その時間に合わせて腕時計のアラームをセットして、ベッドに横になる。
海斗がバスルームに入ってから、日本に帰ってからの事を考える。
家に帰ったら、真っ先にスマホの確認だ。
たぶん着信とメールが溜まっているだろう。
それから実家とゼミ長に連絡を入れて、バイト先にも適当にお土産を持って挨拶をして、と考えていると海斗が出てきて、欠伸をしながら自分のベッドに入る。
「あんた、明日何時に起きるんだ?」
「起きたときに」
「俺は八時に起きるけど、宿出るときに起こさない方が良いよな」
「ん」
海斗は小さく頷くと、そのままこちらに背を向けて横になった。
一ヶ月の旅の最後の会話がそれでいいのかとも思ったが、俺も疲れていたので目を閉じる。
一人旅が好きだったが、こうして二人で旅するのも悪くなかった。
天井を見上げる。
すうっと忍び足で近寄ってきた睡魔に降伏するように瞼を閉じた。
明日、朝出掛けるときにもし海斗が眠っていたら、簡単な置き手紙を残そうと決めた。
「っ、あ……?」
体に熱が籠もるような息苦しさを感じて、意識が覚醒する。
胸の辺りになにか乗っていた。
一瞬野生動物を疑ったが、今日は野宿じゃなかったと思い直す。
強盗かと思ったが、ぺろりと唇を舐められてその可能性を追い払う。
瞼を開けると、そこにいたのは海斗だった。
「か、いと?」
「ああ、起きた?」
意外そうじゃない。
むしろ予定通りだと言わんばかりの口調で、海斗はそう言った。
「何時だよ、いや、何してんだよ」
まだ部屋は暗い。
寝るときもつけたままにしている腕時計を見ると、眠ってから一時間しか経っていない。
「やりたくなったから付き合え」
「……は?」
返答しないうちから、再び唇を舐められる。
「何考えてんだよ」
目を擦りながら、乗っかる男を押しやろうとした。
そのとき、手が彼の胸に触れる。
熱くて硬い胸板だった。
女と違って柔らかくない。
なのに、ぞわりと体に熱が這う。
最近ずっとご無沙汰だったせいだ。
俺はこいつと違って、行きずりの相手と寝る趣味はない。
最後に女と寝たのは、随分前な気がする。
「いいだろ。明日からは別々なんだから、気まずくもならないし」
「あんた刹那的すぎだろ、大体俺は男とやる気はない」
大体、明日は朝早いんだ。
そう言って近づいてきた顔を手で掴むと、ぬるりとそこに舌が這う。
自分の指の隙間から見えた赤く濡れたそれに、は、と吐き出す息が少し乱れる。
「男と経験ないんだろ?」
「当たり前だ」
「経験してみろよ。何事も、やってみなきゃ分からないだろ?」
笑いながら、海斗が俺の股間の上に手を当てた。
いつの間にか下着はずり降ろされていて、直に触れられて思わず呻き声が漏れる。
硬くなっていた。
眠っている間に何かされたのかもしれない。
鈍い頭で考えていると、薄い布地越しに指で擦られ、腰が跳ねる。
出口を求めるために熱が体の中を渦巻いていた。
まずい、と思った瞬間目の前の唇がにやりと歪む
「痛いことはしねぇよ。お前は気持ちいいだけだ」
「女役は、好きじゃないんだろ?」
返答はなく、代わりに海斗は俺のそれを手の中で弄んだ。
このままじゃ流される、と危機感を覚える。
何か言わなければ、力づくでもこいつを止めなくては、そう頭の中で警報が鳴る一方で、海斗の言う「気持ちいい」ことに興味が芽生え始めていた。
元来、俺は好奇心旺盛で、状況には柔軟に適応できるタイプなんだ。
迷っていると、完全に欲情した海斗の目と目が合う。
熱が感染するように、ますます体が熱くなった。
なんて顔してるんだよ、とこの一ヶ月俺には見せなかった顔を見ながら思う。
純粋な本能に抗わずに、欲望を隠しもしないその顔はあからさまで、魅力的だった。
「そう、好きじゃない。相手がはまって、面倒なことになるから。俺の体、すげぇ良いらしいんだよ」
海斗の手がはぐらかすように、太腿にそれた。
肝心な場所を放っておかれ、腰骨や足の外側に這う指をもどかしく感じる。
もう一度先程の場所に触れて欲しいと思った瞬間、内心舌打ちしたくなった。
ああ、まずい。
先程と同じ言葉が頭の中に点滅する。
負ける、と思ったときに唇が重なった。
「博仁」
名前を呼ばれて、俺は結局その唇を避けられなかった。
指が望んでいた場所に再び触れると、安堵すら覚える。
海斗に誘われて、簡単に彼に落ちる連中に半ば呆れていたが、まさか自分もそうなるとは思わなかった。
だけど海斗とのキスは想像以上に気持ちよくて、その先に対する期待を止められそうにない。
結局は俺も、他人の事は馬鹿に出来ないと柔らかな舌を貪りながら思った。
翌朝、目が覚めるとそこに海斗はいなかった。
部屋には朝日と徐々に熱気が籠もりはじめている。
ベッドの上で裸の体を起こし、腕時計のアラームをとめてから注意深く部屋を見回すと、サイドボードにくしゃくしゃのドル札が置かれていた。
あいつの荷物がなくなっていたし、少し出掛けているという雰囲気ではなかったから、置き去りにされたことを段々と自覚する。
元々別れを惜しむような関係じゃない。
それでもどこか寂しいという気持ちを拭えずに、ベッドから降りてサイドボードの上の金を手にする。
金には何か書いてあった。
連絡先かもしれないと思ったが、違った。
”さきに出る”
それだけだ。
「呼び出すって言ってたけど、どうやってだよ」
思わず、そう呟いてベッドに横になる。
「さよならぐらい言っていけよ」