夜の遊園地。
メリーゴーランド。
紫の雲。
綿で出来た柔らかなアスファルト。
一歩進むごとに浮き上がって、飛んでいきそうになる。
たぶん俺の体を構成しているのは、血や肉や骨じゃない。
詰まっているのはカラメルに似た揮発性の高いヘリウムだ。
凄く良い心地だ。
優しい気分だ。
回転する光の向こうで、宝物が待っている。
手を伸ばしても届かないけれど、見つめているだけで爪先から髪の先まで柔らかな熱に満たされる。
だけどその幸せも、あと少しで終わる。
時間がない。
体の中を駆け巡っていた純粋な喜びは跡形もなく消え失せる。
きらきら光る、ふわふわ優しく、くるくる楽しい世界は、その本性を露呈させる。
もうすぐ、ヘロインが切れる。
「せんせー、いきてる?」
低い声がする。
誰だ。
聞き覚えはあるけど、思い出せない。
「せんせー」
俺を呼んでるのか。
せんせー、っていうのは、先生という意味か。
ところで俺の名前は?
それよりこの場所は?
疑問はいくつかあるが、何よりも頭が痛い。
抜け切る寸前の頭痛なのか、それとも二日酔いのせいなのか判断がつかない。
喉も、ひどく渇いている。
「先生」
もう一度を呼ばれて瞬きをする。
目の前に立っているのは、スーツ姿の男だった。
高いスーツを着ているのに上品に見えないのは、こいつの性根が外見に滲み出ているせいだろう。
「なんの、ようだ?」
間抜けな声が出た。
目の前の男が誰かは思い出したが、名前が出て来ない。
だけど、名前はそれほど重要じゃない。
どうせそんなものはただの識別記号に過ぎないんだ。
「うちの若いのが警察ともめててね、先生に来て欲しいんだ」
「若いの?」
「そう、若いの」
男が俺の体を持ち上げた。
そうして初めて自分が床の上に伸びていたことを知る。
連れて行かれたのは風呂だった。
乱暴に降ろされて、遠慮無くシャワーで水を掛けられる。
水が肌を雨のように叩く感覚で、裸だったのだと気づく。
そんなことして俺の意識をまともに戻そうとしても無駄だと思ったが、図らずも喉の渇きが癒せそうで、口を開けて仰向くと頭上から溜め息が降ってくる。
「先生さぁ、やりすぎなんだよ。薬もここの家賃も世話してやるけどな、それはあんたが弁護士だからだ。まともじゃなくなったら、もう世話してやらねぇぞ」
水が鼻に入って痛い。
一度咳き込むと、その瞬間口から注射器で体内に入れたはずのヘロインが飛び出た。
もしかしたらただの唾か、ただの水だったのかも。
だけどとにかく、それが飛び出た瞬間に、俺の頭は朧気ながらも状況を理解しはじめる。
皮膚に当たる水の強さが気持ち悪い。
それに寒くて、凍えそうだ。
「もういい、あとは、じぶんで、できる」
やけに間延びした声で告げると、目の前の男はシャワーのノズルを俺に握らせてバスルームを出ていった。
水を湯に変えて、体を温める。
しばらくしてからバスルームを出ると、リビングのソファで黒塚がくつろいでいた。
そうだった。男の名前は黒塚だ。
黒塚の手の中には、メリーゴーランドのオモチャがある。
随分前に買ったブリキのそれは、ネジを回すとオルゴールが鳴り、木馬や馬車がくるくる回る仕掛けだった。だけどもう、中が錆びていて、ネジを回してもオルゴールはきしみながら時々鳴るだけだ。とてもメロディにはなっていないし、パステルカラーの塗装はところどころ剥げていて、馬車の車輪も取れている。
一体いつ壊れてしまったのか、覚えていない。
かなり昔の話だった気がする。
「触るな」
「……先生は薬が入ってる方が従順でいいなぁ。まぁ、それじゃ使い物にはならないんだけど」
オモチャを取り上げて、子供部屋に持っていく。
普段は鍵をかけてあるその部屋の扉が、開いていた。
恐らく俺が開けたのだろう。
何もかもが埃を被った子供部屋から逃れるように寝室に向かい、クローゼットからスーツを取り出す。
まだ薬が抜けきっていないせいで、視界がぶれる。
ボタンを留めていると、黒塚が部屋に入ってきた。
「昨日は、どこの男と楽しんでたんだ?」
その質問に、ベッドを見る。
シーツ、コンドーム、酒の瓶、それらが散乱していた。
もしそれを俺がやったんだとしたら、恐らく相手は女じゃなくて男だ。
望んでそうなったわけじゃない。
俺の男としての機能は、とっくに使い物にならなくなっているから女を満足させることはできないし、したいとも思わない。それは男に対しても同じだが。
昨日のことは粉を溶かしたところまでしか覚えていない。
その後で誰かが来たんだろう。
ここは俺の家だが、鍵を持っているのは俺だけじゃない。
飛んでいるときは何も感じないから、誰も拒絶しない。
だから適当な奴等が、適当にやりにくる。
だけど最近はホテル代わりに利用する連中も多いので、昨日の夜は誰とも寝ていないのかもしれない。
「知らない。でも、そいつの名前が分かったら、教えてくれ」
半分ぐらい、相手は黒塚じゃないかと疑いながらそう口にする。
いや、どうだろう。
長い付き合いだが、黒塚と寝たことがあるのか思い出せない。
だけど誰に抱かれても、何をされてもどうだっていい。
俺に必要なのは、一つだけ。
脳の中に突き刺さる刺激と、その後にまったりと体全体を温かく包んでくれるあの感覚だけ。
それをもたらしてくれるものは、注射器の中に入っている。
でも薬が回っている間の記憶は、その殆どが失われている。
だから、もし飛んでいる最中に黒塚と寝たことがあっても、俺には分からない。
ただ、モーゼルのグラスを灰皿代わりにする男は願い下げだ。
「どうして? またやりたいから?」
「二度と家に入れないためだ。そのグラスは、灰皿じゃない」
黒塚は片方の眉を上げて、吸い殻と使い残しの水が入ったグラスを見る。
「あんたがそういう事を気にするのは珍しいな。誰かからの贈り物か?」
訊ねられて、ちょっと考えたが、そのグラスを大切に思う気持ちが何に由来しているのか、よく思い出せなかった。
しかしどのみち、その質問には答えなくても良くなった。
黒塚の携帯が鳴ったからだ。
「分かってる。今、先生の家だ。ああ、今日はマトモだよ」
黒塚が電話の向こうに伝える声を聞きながら、ネクタイを締める。
弁護士バッチを留めて、まだ湿っている髪を掻き上げてから、メガネを掛ける。
準備が出来て振り返ると、黒塚は通話を終えて俺をじっと見ていた。
その感情の籠もった視線が嫌だった。
どんな感情かは分らないが、へどろのように粘って濁りきっている。
こいつと初めて会ったのが、いつだったのかは正確にはよく覚えていない。
その頃は既に娘も妻も他界した後で、俺は自暴自棄になっていた。
働くのも嫌になって、酒ばかり飲み、ドラッグに溺れていた。
最初のドラッグがどんな名前だったのか思い出せないが、それは元依頼人から渡された。
『先生が辛そうだからさぁ。これで少しはましになれるよ』
そいつと知り合ったのは、かつて国選弁護人として、引き受けた仕事でのことだった。
どこかの組織の下っ端だったその男は、俺のお陰で実刑を免れた。
その礼だと言って、街中で再会したときに薄水色の錠剤を渡された。
全部で三錠。一気に口の中に放り込んだ。
毒でもなんでも、よかったんだ。
だけど男の言う通り、心地よい気分になれた。
妻のことも娘のことも忘れられる。
何度かバッドトリップも経験したが、それでも止めなかった。
次第に、それじゃ満足できなくなって、もっと強い薬を求めるようになった。
一番最初に俺を犯したのは、その男だった。
もっと強い薬が欲しいと言ったら、交換条件に体を要求してきた。
数十分我慢すれば、数時間飛べる薬が手に入る。
最初から、葛藤なんてせずにその魅力的な取引に応じた。
それ以来、子供用のドラッグじゃなくて、ヘロインを愛用するようになった。
けれど男は何かトラブルを起こして、消えた。もしくは消された。
供給元を失って困っていたときに、黒塚に声を掛けられた。
あのとき何か、色々とごちゃごちゃ言われた気がするが、覚えていない。
殴られた気もするし、どこかに閉じ込められた気もする。
犯された気もするし、足の指を何本か切りとられたような気もする。
いや、でも俺の足の指は全部そろっている。だとしたら、それは飛んでいる最中に見た悪夢なのかもしれない。それとも、誰かがそうされているところを見て自分の体験と混同したのか。
全てが曖昧がかっている。
ただ、痛めつけられた後で取引を持ちかけられたのは確かだ。
要は、黒塚の仕事を手伝う代わりに金とヘロインを得るという約束だった。
「最初からそう言え。喜んで応じた」と言うと、黒塚は薄い唇を歪めて「はじめに、上下関係を教える必要がある」と畜生の躾をするように口にした。
ヘロインは最高だ。
特に、黒塚が持ってくるやつは。
きっと遠くの国から来たんだろう。
途中誰かの腹の中に入っていたのかもしれないし、もしかしたら不衛生な場所で精製されたかもしれない。だけど使う前に煮沸消毒しているから、きっと何の問題もない。
それに問題があっても、どうせ止められない。
世の中がいかに素晴らしく輝いているか、透明な液体が何度も俺に教えてくれた。
細胞の一つ一つが新しく生まれ変わり、世界の全てを分かった気になれる。
そして何度かに一度はあの、夢の中の遊園地に行ける。
ふわふわきらきらくるくる。
楽しいメリーゴーラウンド。
お后様と王女様しか乗れない。
さびしい王様は、それを柵の外から眺めるだけだ。
それでも、あの二人の姿が見られるだけで幸せだ。
触れられなくても、構わない。
透明な魔法の雫を使えば、何度でも彼女たちに会える。
「先生」
声をかけられてはっとする。
俺はいつの間にか、車の助手席に座っていた。
どうやらまた飛んでいたらしい。
最近脳が正常に動いてくれない。
たぶん、俺はもうだめだ。
肝臓は酒でやられている。
肺は煙草のお陰で詰まりはじめているし、胃は悲惨な食生活で荒れている。
心臓は、もうずっと止まったままだ。
愛する二人が死んだと知ったときから。
「警察の前では、まともでいてくれよ」
黒塚はまともにしろと言うが、どうせ連中だって俺がヤク中なのは分っている。
中毒患者特有の茫洋とした眼は隠しようもない。
知っていても、手を出さないだけだ。
黒塚のところにはもっと正式な顧問弁護士が付いている。
俺はせいぜいお使い程度の役にしか立っていない。
だから警察にとって、俺を取り締まることには何の意味もない。
「お前のところの若いのは、一体何をしたんだ?」
「さっきも説明したんだけどな、先生」
黒塚が苛立った声を出す。
ここに座っているのが彼の部下なら、怯えてすぐさま謝るだろう。
いや、そもそも彼の部下なら彼に運転をさせたりはしないし、話を聞き逃すようなこともないだろう。
だけど俺は彼の部下ではないし、彼のことなんて少しも怖くない。
「っていう訳だ」
「ああ、また聞き逃した。もう一度最初から」
「いい加減にしろよ」
苛立ちではなく呆れを滲ませて黒塚が車を停める。
急停止に驚いた後続車のブレーキ音が、耳に痛い。
普段は彼の部下が運転しているせいから、彼の運転は年々下手になっていく気がする。
「あんた、やりすぎなんだって」
そうだろうな、と思った。
声を出すのが億劫だったので、返事はしなかった。
「もう随分経つんだし、いい加減死人のことは忘れて」
気づけば、黒塚の首を片手で絞めていた。
渾身の力を込めたが、二日酔いで薬が抜けきらない体だ。
大した握力ではないんだろう。
黒塚が、詰まらなさそうな顔で俺を見ている。
以前、何かの折りに黒塚は親に捨てられたと聞いたことがあった。
生まれたときからずっと施設に入れられて、大人になるまで親の名前も知らなかったらしい。
ただ黒塚の名前だけは、親が付けたものなのだと聞いたことがある。
それを聞いたとき、横にいた老人は同情気味に「かわいそうに」と口にした。
俺は何とも思わなかった。
一体その老人が誰なのかは、覚えていない。
話を聞いたのが、いつだったのかも、どこだったのかも分からない。
黒塚のことで俺が知っているのはそれぐらいだ。
年下なのか、年上なのか、一度も訊ねたことはないし、黒塚はそのどちらにも見えた。
ぼんやりと、その女に好かれそうな顔を見ていたら、いきなり腹を殴られた。
衝撃に、思わず咳き込んで首を絞めていた手を放す。
容赦のない拳に、息が止まり、体を前に折って殴られた場所を庇う。
しかし黒塚はそれ以上手を挙げることはなかった。
車は再び走り出し、警察署に到着する。
門番のように立っている制服警官を見て、彼が銃で俺を撃ち殺してくれないだろうかと考えた。
しかし、それはありえない想像だ。
そもそも彼は銃を携帯していないし、ここは日本だから仮に俺が何かしたとしても、すぐに銃殺されるような事態にはならない。
「先生」
助手席のドアを開けて、黒塚が俺を呼ぶ。
のろのろと車を降りると「しっかりしてくれよ」とうんざりしたように言われた。
この仕事が終われば、禁断症状が始まる前にヘロインが貰える。
そうすれば、きらきらしたあの世界をもう一度見られるだろう。
毎回、彼女たちに会えるわけじゃない。
だけどそれなら会えるまで何度も打ち続ければいい。
そしていつか、俺もあちら側に行く。
ふと前を見ると、黒塚の指が俺の唇の端に触れていた。
「涎」
嫌そうにそう言った後で、唇を拭われる。
それを聞いて少し嬉しくなった。
俺は一歩一歩着実に廃人に近づいている。
完全に壊れる日も近い。
その日、5月27日17時59分に俺は事務所にいた。
電話がかかってきたときは、丁度依頼人と何度目かの打ち合わせをしていた。
隣人トラブルから裁判に発展したケースで、依頼人は金よりも相手の名誉を傷つけたがっていた。
嫌みな女だった。
地味な格好をしていたが、強い香水をつけていた。
早く切り上げてしまいたかったが、その女は関係ないことまでだらだら話していて、切り上げるタイミングがなかなか掴めなかった。
彼女の愛犬の話に嫌気がさしていたから、俺宛に警察から電話がかかってきたとアシスタントから聞いたときは、ほっとした。
だけどその電話は、俺の想像していたものとは違った。
『奥様とお嬢様が……』
その続きは、実はよく覚えていない。
病院に駆けつけたときには、既に二人は息絶えていた。
結婚して五年目、娘は四歳だった。
妻の腹の中にはあと数日で生まれる予定の息子がいた。
事故だったら、まだ救われたのかもしれない。
だけど、妻と娘は殺された。
犯人は、同じように娘と妻を殺された男。
俺は彼の娘と妻を殺した殺人犯を弁護して、無罪を勝ち取った。
その結果が、これだ。
俺の妻と娘を殺した男は、俺に向かって「俺の気持ちが分かっただろ?」と虚ろな目で呟いた。
あれは法廷だっただろうか。
それとも、どこか別の場所だっただろうか。
何も覚えていない。
男に復讐する気力すら湧かなかった。
まるで、俺にとっては何もかも夢の中の出来事みたいだった。
思い出すのは、三人で行った遊園地のことばかりだ。
『俺はいいよ。撮ってるから』
そう言って、メリーゴーランドには乗らずに、カメラを構えて二人を見つめていた。
娘は、俺が見える度に手を振る。
その度に髪が揺れる様が可愛らしかった。
妻は俺の方を見て、いたずらっぽく笑っていた。
『お姫様とお后様みたいだったよ』
降りてきた二人に、そう声をかけた。
オモチャのティアラが、娘の頭の上できらきら輝いていた。
余程メリーゴーランドが気に入ったのか、帰りに強請られてオモチャのくるくる回るメリーゴーランドを買った。
妻からは「一人っ子だからって甘やかしてばかりだったけど、もうすぐお姉ちゃんになるんだから、我慢も覚えさせなきゃ」と小言を貰った。
だけど、もっと買ってやればよかった。
あの店にあったもの、全部。
ふわふわのぬいぐるみも欲しがっていたのに、買ってやらなかった。
思い返せば、後悔ばかりだ。
俺が、弁護士になんかならなければ。
俺が、あんな奴の弁護を引き受けなければ。
俺が、あの日、会社を休んでいれば。
俺が、
俺も、一緒に、そちら側に。
「先生」
目を開けると、傍に黒塚がいた。
体は怠いが、良い気分だった。
怖いものはなにもなく、不安もない。
漂っているだけでいい。
誰も俺に、何も求めない。
「また、飛んでんのか。いい加減にしろ」
黒塚はそう言って俺の髪を掴んで持ち上げた。
見覚えがある。
ここは、俺の部屋だ。
いつの間に移動したんだろう。警察ではうまく仕事をやり遂げたんだろうか。
いや、それは何日前の話だ?
視界は霞んでいるが、薬のお陰で頭の中はやけにクリアだった。
今なら、難解な数式だって解けそうだ。
それなのに最近のことは、妻と娘が死んでから後のことは記憶していられない。
黒塚は俺を抱き上げて、ベッドに運ぶ。
服を脱がされるのが分かったが、抵抗する気にもならない。
何でも、好きなことをすればいい。
殴るのも犯すのも、好きにすればいい。
ヘロインが切れたときに、覚えている保障はないんだ。
でもどうせなら、とびきり痛いことをすればいい。
死んでしまうくらいに。
「先生」
黒塚の首筋に、手を這わせる。
締めても、嫌がらなかった。
急に、部屋に水が流れ込んでくる。
天井が開いて、太陽が降り注ぐ。
気づけば二人で、青緑の透き通った冷たい海の中にいた。
俺は全ての足を千切られた蛸だ。ラグーンに浮かんでいる。
足がないから獲物を捕ることもできず、ただ死を待つだけのそれ。
浮かぶことしかできない。
でも、黒塚は違う。
黒塚は、鰐だ。強く、鋭い牙を持ち、鱗に覆われた鋼の尾と鋭い爪がある。
ただその肺は歪みすぎて、この透明な水の中では生きられない。
それでもここにいたいなら、こいつは俺を食うしかない。
俺を食って、抗体を作るんだ。
どれだけ塩分が濃くても、平気でいられるように。
「噛み砕け」
俺がそう言うと、黒塚が目を細めた。
「俺を食らいつくせ。血も骨も、欠片だって残すな。じゃないと、向こうには行けないんだ」
今、俺と黒塚は繋がってるのか。
それとも違うのか。
分からない。
何も。
「酸素なんかなくていい。水の底に行くんだから。息なんてできなくていい」
黒塚の首を絞める。
段々と、その顔が赤くなってくるが、黒塚は俺の手を解こうとはしなかった。
そうか、お前も向こうに行きたいのか。
気管。血管。骨。
全部がバチンと千切れるように、力を込めた。
黒塚は小さく呻いてから、俺の手から逃れる。
咳き込みながら、空気を吸う音が聞こえた。
「吸っちゃだめだ。吸ったら、向こうには行けない」
不意に波に飲まれると思って目を閉じたが、一向に衝撃はやってこない。
仕方ないから、自分で自分の首を絞めてみたが、どうも上手くいかなかった。
すると、傍らで溜め息が聞こえる。
視線を上げると、黒塚が首をさすっていた。
俺の指が回っていた部分が赤くなっている。
「なぁ、あんたがまともに戻ることってもうねぇのかな」
ぽつりと、黒塚が口にする。
「俺が母親の腹から取り出されたとき、もう母親も姉貴も死んでて、おまけにこれじゃあ、俺がおかしくなるのも無理ないよなぁ?」
同意を求めるように泣き笑いの声で黒塚が言った。
「黒塚先生、あんた俺の名前覚えてる?」
黒塚の質問に、俺は答えられない。
知っている気がする。
でも、思い出せない。
黒塚は黒塚だ。それ以上でも以下でもない。
どうだっていいんだ。
「俺が誰か教えても、どうせあんた数日後には忘れるんだよな? これのせいなのか、それともあんたの心がそうさせているのかわからないけど。やっと探し出したのに、こんな状態だなんて、ひでぇよな」
そう言って、黒塚が魔法が詰まった注射器を持って、俺の足首を掴む。
何度も何度も針をさしているから、その場所は他のところと感触が違う。
赤いかさぶたの付いた場所を避ける黒塚をぼんやりと見つめて、思いついた音を口にする。
「 」
注射器の透明な液体の中に、俺の血が入りこむ。
海の中の赤いクラゲみたいだ。
色がゆっくり混ざって、全体が薄く綺麗な赤色になるのを待ってから、黒塚はそれを俺の体に入れた。
「今日は……覚えてたのか。でもどうせ、これが抜ける頃には忘れてるんだろ。親父」
中身が入ってくる瞬間、足が熱くなる。
その液体は、俺の血よりも温かい。
じわじわ広がる熱が、体を這い上ってきた。
透明な液体は鋭い刃物となって細胞の一つ一つを切り裂き、その中からどろどろした黒くて汚いものを排泄する。
「 」
「そうだ、あんたが考えた名前だ」
「 」
喋ろうとすると、口の中に海水が入ってくる。
喉を通った水が腹に溜まり、体重がどんどん増えていく。
海の底に、沈んでいく。
「 」
鰐が何か言っているが、水の中だから声は聞こえない。
もう少しで、底にぶつかる。
赤や黄色の美しい珊瑚のベッドに横たわれる瞬間を期待して、目を閉じた。
俺の首筋に黒塚の指がかかる。
水面を見ると、太陽の光がきらきら輝いていた。
口から零れた気泡が、ふわふわ揺れながら上っていく。
目の前で小さな魚がくるくる回って、いなくなった。
きらきらふわふわくるくる。
いつかきっと、何も分からなくなる。
優しい記憶も愛しい時間もすべて忘れてしまうだろう。
だけど代わりに、悲しみも痛みも虚しさも、感じなくてすむ。
その日が来るのを、俺はひたすら待ちわびている。
俺を殺せないお前の名前を呼びながら。