2013/05/01


the Devil next CELL b 01








「助けが必要か?」


  声のした方を見る。
  向かいの檻の隙間から、両手を出しているのは強盗傷害で服役中の男だ。
  両腕の手首の内側に複雑なシンボルが藍色で彫られていた。
  無骨な指には細かい傷がいくつか着いている。
  にやついた口元までは、廊下の常夜灯に照らされて見ることができた。
  日に焼け、引き締まった腕には、指と同じく傷が無数についている。
  最終施錠時間ぎりぎりに戻ってきた男の顔は記憶にない。
  今は薄暗い檻の向こうにいるので、鼻先から上は見えない。



「助けが必要か?  日本人」



  もう一度、そう声を掛けられる。
  必要だったとしても、彼にどうこうできるとは思えない。
  俺達の間には頑丈な檻が二つある。一つは彼を閉じ込めるために。
  もう一つは俺と、俺の上に跨るこのクソデブを閉じ込めるために。
  そうだ。向かいの男に構っている場合じゃない。


「っ」


  男を無視して、脇を締める。
  俺の両手を縛ろうと、クソデブがシーツの端に手を伸ばしたタイミングで、目の前にある側頭部に思い切り肘を入れた。
  狙うのは中硬膜動脈がある箇所だ。頭蓋骨が薄くなっていて、上手くやれば一発で気絶してくれる。


「ぐ、ふ」


  残念ながら相手が一発で気絶してくれなかった今回のような場合は、立て続けに同じ場所を狙えばいい。幸いに、一回目の打撃で腕の拘束が弛んだので、直接拳でいける。
  

「う……ぅ」


  三発目で、ようやくクソデブが落ちた。
  べったりと俺の体に全身を預けてくる。
  恐らく300ポンドは下らないだろう、醜悪な匂いを放つ贅肉の固まりに押し潰されないうちに、クソデブの下から這い出す。
  汚い床の上に押したされて服が汚れた。
  これでベッドに入ることを考えると、うんざりする。
  尤も、服の汚れを気にするほど綺麗なベッドではないけれど。


「意外とできるなぁ日本人」


  にやけた声で向かいの男が口にする。


「自分の面倒は自分で対処できる。他人の心配をするぐらいなら、自分の心配をしろよ」
「折角忠告を貰ったが、俺は一人暮らしでね」


  男はそう言った。
  普通は、二人で一つの房を使うが、確かに向かいの房には男以外の気配はない。
  俺は気絶したクソデブを蹴って壁際に転がす。
  寝棚の下段で寝ているところを、床に引きずり落とされて押し倒された。
  幸いにもすぐに目は覚めたが、寝起きで自分の倍以上体重がある奴を相手するのは流石にきつい。



  クソデブのシーツで太いぶよぶよした両手を縛って格子に繋ぐ。
  これで仮にこいつが目覚めたとしても、安全だ。
  一仕事終えて、ベッドに腰をかける。
  できれば酒が飲みたいが、ここにはそんな気の利いたものはない。
  しかし煙草はあるようだ。
  向かいの監獄から網目状の通路を滑ってきたのは、潰れた煙草のパッケージだった。
  気が利くことに、中にマッチまで入っている。


「どういうつもりだ?」


  今は意識のないクソデブに「向かいの男は怒らせるな」と、忠告を受けたのは夕食時だった。
  そのときのクソデブはまだ愛想がよく、人当たりの良い奴だった。
  隣人達の情報は食事中に色々聞いた。
  その中でも要注意だと言われたのが、向かいの男だ。
  犯罪組織のリーダーで、銀行強盗でせしめた金の総額は一般的なサラリーマンの生涯年収を10倍しても足りないという話だ。


「頭の良い話し相手が欲しかったんだよ。お前、元医者なんだってなぁ?」
「……」
「確か渾名は、死神、だったか?」


  こんな郊外の檻に閉じ込められているわりには情報通だ。
  そういえば、クソデブも俺のその通り名を知っていたようだった。


「安楽死を名目に患者を殺しまくったってな」
「さあな」
「オレゴン州なら罪にならなかったのにな」


  男を睨み付ける。
  煙草を投げ返してやろうかと思ったが、思い直して一本取り出して口に含む。
  マッチで火を点けてから、監房の中は禁煙だったことを思い出したが、元もと規則を守るのは苦手だ。
  だからここにいる。


「名前は?  日本人」
「知ってるんだろ?」
「日本語は馴染みが薄くてね。覚えていられない」
「なら、教えるだけ無駄だろ」
「つれないな。そんなに勿体ぶるような名前なのか?」
「……ソウマ・ミズセ」
「ソーマ。俺の名前は聞かなくていいのか?」
「あんたと違って物覚えはいい。エドワード・カークウッド。強盗団のリーダーで、子供の頃から刑務所を別荘代わりに使ってる。短気で凶暴、懲罰房の常連で、素行が悪くて仮釈放はまず通らない」
「でも、懲役はお前の方が長い」


  その台詞に急に息苦しさを感じる。
  煙草を吸うのは久し振りだ。十代の頃に止めて、以来肺に負担をかけることはなかったから、煙が針のように肺胞の一つ一つを刺している。
  それでもニコチンが血管を収縮させることで感じられる酩酊感は、この酷い現実を生きるのに必要だった。


「お喋りスミスから色々聞いたみてぇだな」
「”お喋り”がこいつの渾名か?」


  俺はまだ伸びている同室の変態を見やる。


「他にも色々そいつには渾名がある。例えばレイプ魔とかな。忠告が遅れて悪かったなぁ」
「……さっき、助けが欲しいか聞いただろ?  もし俺が必要だと言えば、どうにかなったのか?」

  カークウッドが声も出さずに笑う。
  顔は見えないが、空気でそれが分かった。


「俺がやめろと声をかければ、きっとそいつは止めただろうよ」


  男のことを語るクソデブは確かに恐れている様子だった。
  

「俺は誰の女になる気もない」
「エリートがここで後ろ盾もなく生き残れるのか?  同室の奴とは、仲良く出来そうにもないんだろう?」

  含み笑いに嫌な気分になりながら、「関係あるのか?  あんたに」と口にする。

「お前は社交的なタイプじゃないかもしれないけど、ここでは友達は多い方がいいぞ。特に、お前みたいな小柄で、エリートだった奴はなぁ」

「俺と友達になりたいのか?  カークウッド。あんたもこいつと同じでゲイかよ」

  嫌悪感を隠さずにそう口にすると、闇の向こうで男がまた笑う。
  声で年齢を測るのは難しいが、相手は俺とそう変わらない年齢に思えた。
  目の前に転がっている変態からは、向かいの房の男の年までは教えて貰っていない。

「女がいないんだ。小柄な男で代用するしかねぇだろ」
「気持ち悪いな。動物だって、そんなことはしない」
「ソーマ、残念だが数多くの動物が同性愛行為に励んでるんだぜ?  ほ乳類から昆虫までな。性転換までする個体があるんだから、俺達が男同士で不毛な関係を結ぶことを、恥じる必要はない。そうだろ?」
「……頭の良い奴としたい会話っていうのが、これか?  自分がゲイであることを生物学的に正当化したいのか?」
「ここに一年もいたら、男相手に発情するようになる。そのときに、お前が戸惑わないように、教えてやってんだろ?  生物学的に異常じゃないってことを」
「そんなことより、どうせならもっといいことを教えろ。俺と友達になりたいならな」
「いいこと?」
「ここからは、どうやったら出られる?」



  向かいの男は、一歩自分を閉じ込める檻に近づいた。そのお陰で顔が見える。
  緑ともオレンジともつかない常夜灯に、男の姿が浮かび上がる。
  無精で伸ばしたらしき髪を後ろで縛っているが、女性的な印象は一切無い。
  頬には刃物で切った傷があり、右目のあたりには痣が出来ていた。
  しかしそれを抜きにしても、整った顔の男だ。
  けれど暗く光る瞳が、折角の顔の良さを損なっている。
  ここに連れてこられる間、隣に座っていたのは新聞を騒がせたシリアルキラーだった。その反対は金欲しさに自分の両親と兄を殺した男。向かいにいたのはロシアンマフィアだった。誰もが荒んだ目をして、誰もが迂闊に近づけばやばいと思わせるような迫力があったが、臆すことはなかった。
  だけど向かいの男に見つめられると、忽ちこの場から逃げ出したくなった。
  今まで凍り付いていた恐怖心が、急に溶け出したように、指先が細かく震える。



「そんな方法はねぇよ。お前は死ぬまでこの房の中だ。だから、ここで生き残る術を考えろ」



  男は再び、暗がりの向こうに戻った。
  もう姿は見えない。
  気づけばどこからか、誰かのすすり泣きや鼾が聞こえてくる。
  遠くで、他の誰かが喋っている声もしていたが、内容までは分からなかった。
  一服終えて、ベッドに入る。
  だけど眠ることはできなかった。
  男の声が耳の奥で何度もループする。
  


  いっそ、殺してくれ。



  最初に安楽死させた患者の言葉が、不意にぽつんと蘇った。


「いっそ」


  そこまで言いかけて口を噤む。
  その言葉を声にだして仕舞ったら、正気を保てなくなりそうで、俺の心に波風を立てた男を恨むように、暗がりの向こうを見つめる。
  向かいの房はもう何も見えず、何の音も聞こえなかった。















   
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