俺の死んだじいちゃんが言ってたんだ。
真面目に生きていれば、誰かが必ず見ていてくれるって。
世の中どう転ぶか分からないって。今は下り坂でも、その道はきっと上り坂に続いてるって。
本当だね、天国のじいちゃん。
こんな怖い顔だけど、一応俺にも彼女ができたよ。
ふられたけど。
こんな怖い顔だけど、一応俺には慕ってくれる大事な友達が二人もいるよ。
ホモだけど。
いや、先月まではホモじゃなかったんだ。
本当に世の中どう転ぶか分からないね、じいちゃん。
「でも、何もそっちに転ぶことないだろ!」
「正輔、テーブル叩かないでよ。冷麺の汁飛ぶから」
俺がやりきれない思いをぶつけるように焼き肉屋のテーブルを叩くと、すぐさま向かいに座る麻人から小言が飛ぶ。
全体的に色素が薄く整った顔をしていて菜食主義者というのが、繊細そうなイメージに拍車をかけているが、中身は腹黒い小舅みたいな奴だ。
高校時代に俺がもてなかったのは、こいつの引き立て役をやらされていたからだ。
隣に白馬の王子様さえ裸足で逃げ出すような容姿の麻人が立つと、俺の悪人面が際立つ。俺達二人が立っていると、水が流れるように、自然と女子は麻人の方に向かう。
そんな”がつがつしなくても女が寄ってくる余裕系男子”の麻人が、何故か横に座っている”良い奴だけど鈍感でときどき無神経で彼女いない歴=年齢=童貞”の悠仁と、いつの間にかできてた。
一体、何があったんだ、お前ら。
大学に入ってこれからバスケ部の合間にバラ色の毎日が広がるってときに、何故男同士でくっついたんだ。
いや、ある意味そっちもバラ色なんだろうけど。
むしろ俺よりバラには詳しいでしょうけど。
「悠仁、野菜食べなよ」
「今朝も散々食べただろ。ニンジンのでかいやつとか」
「……俺の作った温野菜サラダに文句があるならもう食べなくてもいいよ」
「文句なんて言ってないだろ。でもニンジンでかすぎるよな。ドレッシングかけてもニンジンの味しかしなかったし」
「悠仁の舌、頭と一緒に馬鹿になってるんじゃないの?」
「あ?」
「いいから、食べなよ」
はわわわわ、なんかデートみたいじゃね? 目の前の人達、これデートだと思ってね?
あれ、俺のこと見えてないのかな?
二人は目の前で「はい、あーん」のやりとりを始めている。
しかも悠仁は麻人が差し出したをピーマンを、味わってるんだけど……。
何これ、俺どうしたらいいの?
感情に任せて冷麺とかぶっかけちゃっていいの?
「何?」
不穏な気配を察知したのか、こういうことには妙に聡い麻人が俺を見る。
「え? いや、うん、なんか、いや、その、え? 家でもそんな、感じなんですかね」
恐る恐る訊ねると、麻人は「そう」とあっさり認めた。
「俺が作ったご飯に文句を言うんだよ! 人に作らせておいてどうなのって話しだよね!」
そういう事じゃねーよ!
「だって、こいつの料理、野菜ばっかなんだよ。俺はヤギでも兎でもない」
「だったら食べなきゃいいじゃん!」
「お前が折角作ったのに残せないだろ」
「じゃあ文句言わずに食べなよ!」
「だから、野菜が多いんだって!」
「もう、やめて!」
ダンっと、両手でテーブルを叩く。鉄板付きなので、テーブル自体はびくりともしないが、皿はガチャンと鳴った。
「俺、息してない!」
そう言って両手で顔を覆う。
「してるじゃん」
冷静な麻人の突っ込みにもめげずに「お願いだから俺の前でいちゃいちゃしないで!」と焼き肉の匂いが染みついた木製のテーブルに顔を伏せる。
「え?」
「してないけど?」
「自覚ねーのかよ! せめて自覚はしてくれよ! 自覚だけでもしてくれよ! あーんしてる時点でおかしいよ! 男同士はしないよ、そんなの! 俺らだってした事ないじゃん!」
「……してほしいの?」
「違う! そうじゃない! だから違うって! タマネギ差し出さないで! 俺それ食べないからな!」
箸を持ったまま麻人が小さく首を傾げる。
黙っていれば、麻人は相当綺麗な顔をしていた。
美人の母親の遺伝子がそのままそっくり受け継がれたようだ。
しかし外見はともかく、性格も口も悪いし、チームメイトじゃなきゃ一緒に行動する事はなかっただろう。
それに関しては悠仁も同意見だったはずが、何がどうしたのか、一緒に暮らすようになり、気付いたらくっついていた。そして俺より先に童貞卒業したらしい。
男同士って童貞卒業になるのか、っていう疑問は後回しにするにしても、二人ともホモじゃなかったのに。
悠仁は麻人で童貞卒業する前は普通に女の子が好きだったし、麻人は手当たり次第と言わないまでも、大勢の女の子達と関係を持っていた。
しかもそれを若干俺や悠仁に自慢している節があった。
なのに、これだ。
俺の愉快な仲間達は愉快を通り越して、何か別の次元の物にクラスチェンジしちゃったみたいだ。
「どうした悠仁、どうした麻人」
「お前こそどうしたんだよ、正輔」
確かに麻人が女装したら、多分抱ける。
いや、自分と同じ物が付いているんだから、無理だ。脱がせた時点で意気小チン。
あ、今の親父ギャグとかじゃないんだからねっ。勘違いしないでよねっ。
「さっきから何が言いたいの? 頭悪いなりに、頑張って説明してよ」
「相変わらずひどいな! 彼氏の前でぐらいイイ人ぶれよ!」
「彼氏って……そういうの止めてよ」
「なんか恥ずかしいな。普通に」
「いやいやいや! 何、お前ら照れてんだよ!! そういう流れじゃないだろ!! 頬染めんなぁあ!!! 殺すぞぉおおお!」
「俺が正輔ごときに殺されるわけないだろ?」
「え、俺顔赤い?」
微笑みを浮かべながら平然ともしゃもしゃサンチュを食べる麻人の横で、悠仁が自分の頬に手を当てている。
「そもそも俺が女に振られたばっかなのに、なんでお前等ゲイの癖に幸せそうなんだよぉおおお! っていうか、これ、俺の慰め会じゃないのかよ! 慰められた気しねーよ」
「違うよ。落ち込んでる正輔を肴に飲む会だよ」
「ちくしょぉおおお、悠仁、こいつの何がイイんだよ! 顔とバスケのスキル以外最悪じゃん!」
「え、あ、あー……だってこいつ」
「聞きたくないぃいいいい!」
「なんだよ、お前が訊いて来たんだろ?」
「だって今惚気る感じだったもんんん! 惚気ようとしてたもんんん!」
「正輔、落ち着けよ」
「俺の方が麻人よりイイ男じゃん! 悠仁だって麻人と俺だったら、俺を選ぶだろ!?」
「……俺に喧嘩売ってるなら、買うよ?」
今まで余裕の顔で話を聞いてた麻人が、目を眇めて俺を見る。
その表情に、息が止まる。
昔からそうだった。麻人は悠仁が絡むと、ややこしくなる。
基本的に普段はすっきりした性格だが、こいつは悠仁に関してはかなり粘着質だ。 それはもう、ある意味ストーカーレベルに。いや、たぶんストーカーだ。間違いない。何せ、近くにいる男友達にすら気味が悪いくらいに嫉妬する。
その男友達って、主に俺の事だけど。
そうやって過去を振り返ると、もしかして麻人はもともと悠仁狙いのホモだったんだろうか。ああ、なんだろう、思い当たる点がいっぱいある。
「う、売ってませんよ。買わないでくださいよ」
体格で言えば、麻人は俺より一回り細い。
白兵戦なら余裕だけど、情報戦で完敗する。
こいつを一発殴っただけで、俺の大学生活は悲惨な末路を辿ることになるだろう。
麻人は顔が広いから、周囲にろくでもない噂をまいて、ねちねち仕返しするに決まってる。こいつの腹黒さは伊達じゃない。他人を陥れて自分の地盤を固めるタイプの策士だ。
その一番の被害者は悠仁だったはずなのに、なんでくっついてるんだろう。
「ならいいけど、あ、ちなみにここ割り勘だよ。さっき一人占めした特上和牛は正輔が全部払ってね」
「な、なんだよ! 奢れよ! 慰めろよ!」
「セックス強要してふられたとか、慰める気にならなくて。ごめんね」
「だ、だってしたいじゃん! 付き合ってて家まで行ったら無条件にOKだと思うだろ!」
「女には色々都合があるから」
「だ、だから二回は我慢したんだって。断られたのは三回目だったし、いやよいやよもすきのうちって昔の人が言ってたし、男は強引でときには強気にならなきゃいけないってうちのじいちゃんも言ってたし、だから」
「正輔がやろうとしたのはデートレイプだよ?」
「レッ、で、でも、結局してねぇもん! 結局ふられてとぼとぼ帰ってきたもん! どっちかっていうと、俺の方が殴られたり蹴られたりしたもん!」
「とにかく、次は今回の失敗を生かして欲求不満な年上女に的を絞ればいいんじゃないの? 脳味噌がなくても筋肉があればいいって女もいるから、相手さえ選ばなければすぐに彼女できるよ」
もしかしてこれは、麻人なりに俺を励ましてくれているんだろうか。
「だ、だよな。次頑張ればいいよな。俺、次は女の子の気持ちを出来る限り優先させるよ」
「うん。そうしなよ」
「次は断られても、我慢できるように頑張る。っていうか麻人なら断られてもがつがつしないんだろうな」
「どうなんだろう? 断られたことなんて一回もないからわからないな。もてないってかわいそうだね」
それはそれは華やかに、にっこりと天使のように微笑んだ麻人にバラバラになっていた俺のハートが、さらに細かく粉砕される。
「っ、う、うわぁああああん!! ひどいー!!! 優しくなぃいいい」
「正輔、落ち着けって。麻人の言うことを真に受けるなよ」
しばらく黙って肉に集中していた悠仁が、俺に手を伸ばしてくる。
しかし、俺はその手を反射的に弾く。
こいつは裏切り者だ。俺に許可を得ずに童貞を卒業した罪は重い。たとえその相手が天使に見える悪魔であったとしても。
「気安く触るなよ。お前なんかもう仲間じゃないんだ。バカぁ!」
「……正輔、俺だってきっと断られるって」
「え? 俺、悠仁の誘いなら仮に体調が悪くても断らないよ?」
「え、あー……いや、それは、断れよ。そういうのでお前に無理させたくな……」
「ちょっとぉおおお!! もぉ、そこでホモるのやめてくれませんかあぁああ! お前等を見てると俺の人生がどんどん坂道になっていくんですけど! どんどん下っていく感じの坂道に思えてくるんですけど!」
「あの、お客様。他の方のご迷惑になるので」
テーブルに顔を伏して叫ぶと、黒いバンダナを巻いた店員が耐えかねた様子で近づいてくる。
「すみません、そろそろ黙らせますから」
「あ、あなたも俺が迷惑なんですか! そうですよね! 俺なんか、生きる価値もないですよね! サンチュについた芋虫程度の価値しかないんですよね!」
「サンチュに芋虫とか、たとえでもやめてください。迷惑です」
「や、やっぱり迷惑なんだ! 俺なんかもうバスケットゴールのバックボードになって、毎日何百発も硬いボールをぶつけられればいいんですよね、分かります!」
「ちょ、っとお客様!?」
黒いTシャツを着た店員に縋り付くと、相手が迷惑そうに腰を引く。
「優しくされたいんですー!! お、俺だって、俺だって幸せになりたいのにー!!」
「すみません。それ、振られたばっかりで錯乱してるんで、もう連れて帰ります」
「酔ってるみたいで」
二人がそう言って、店員から俺を引き離そうとする。
どうせこの二人は店を出た瞬間に、俺を捨てて駅に向かう。
その後で同棲している家に帰って、やる事をやって、明日の朝にはちょっと疲れた顔で部活の朝練に出てくるのだ。
一方俺は、男しかいない寮に帰って、雄臭い玄関で靴を脱いで、寒々しくて汚い共同風呂に入って、狭くて過去には男しか住んでいなかった部屋に戻って、汗くさい布団で眠るはめになる。
そんなの虚しすぎる。
「いやだ、俺は帰らない! 優しくされるまで俺は帰らない! 俺だって、俺だって幸せになりたい! 俺だって童貞を卒業したい!」
店内の注目を集め、力一杯叫んだ。
大声を出したことで胸の中に溜まっていた黒い靄が晴れていく気がした。
しかし思いの丈を吐きだし終わるのと、ふっと微笑んだ麻人が指先を揃えた右手を俺の項に向かって素早く振り下ろしたのは、ほとんど同時だった。
目覚めは思いの外良かった。
ベッドは柔らかく、枕からは柑橘系の甘い匂いが微かに香っている。
ただ項が異様に痛い。
「昨日……って、?」
焼き肉屋にいた事は覚えている。
あの悪魔がサンチュをもしゃもしゃ食べていた事も、悠仁が少し困った顔で惚気ていた事も。
「それから俺……?」
回想の途中でカチャリとドアが開く音がした。
そこでようやく、自分が何故かふかふかの柑橘系の匂いがするベッドに寝ているのかという事を疑問に感じる。
寮の布団は一ヶ月以上干してもいないし、シーツも取り替えていない。
それに壁はこんなに白くないし、絵も飾っていない。
天井にファンも回っていないし、なんかやたらでかいテレビも、置いてない。
どこだ、ここ、もしかしてホテル? という小さな呟きは裸足でぺたぺたと近づいてくる足音に掻き消される。
「おはよ」
ベッドの上で固まっている俺に、髪を拭きながら男が近づいてくる。
ローライズの下着に、どこか見覚えがある気がした。
俺が見守る中、男は床の上に脱ぎ捨てられていた黒い細身のパンツを掴むと、そこに足を突っ込む。
屈んだ時に、盛り上がった腹筋が見えて、「おおぅ」と無意識に声が漏れた。
「ごめん、俺、朝から仕事入ってるからもう行くけど」
「あ、はい」
返事をしてから、目の前の人が昨日の焼肉屋の店員だと気付く。
一体どうして、昨日知り合ったばかりの焼肉屋の人とホテルにいるんだろうか。
「それから、それもごめん。俺、興奮すると無意識で痕つけちゃうんだよね」
「あと?」
そう言われて、自分の体を見下ろし、思わず「うおぉっ」と叫ぶ。
腕の内側や鎖骨の少し下辺りに赤い痕が付いていた。
キスマは筋肉があると着けにくいというが、筋肉達磨と呼ばれた俺の体でもいくつか確認できる。
え? キスマ?
「ちょ、えええええ? ちょ、えええええ!」
目の前にいるのが、胸が平たく、声が低い女だと思いたい。だって髪は肩につくくらい長いし。
唇はピンクの綺麗な色をしているし。
「ごめんねー」
「お、ええええ!?」
あっさりとした謝罪を受けた後で、嫌な予感で薄い布団を捲ると、全裸だった。
妙に腰も疲れている。
「お、あ、俺……その、え、嘘、え? これ、え?」
「関根君、すごく上手かったよ。初めてだって言ってたけど、俺結構夢中になっちゃった」
「な、何にっすか?」
「……言わせたい?」
ベッドに腰を下ろした男が、俺の頬に手を滑らせる。
男なのに、妙に色気のある仕草だったが、正直そんなこと、どうでもいい。
こいつ、俺の体に何してくれたんだ。
「いや、これ、俺……なんで? え? 無理矢理?」
「覚えてないの? 路上で”童貞捨てさせてください”って俺に土下座したこと」
昨日の俺は、何してくれたんだ。殺したい。とりあえず昨日の俺を惨殺したい。
「信じられないなら後で見せて貰うと良いよ。友達がムービー撮ってたから」
わかった。とりあえず、昨日の俺を殺す前に麻人を殺ろう。話はそれからだ。
「俺、あの、マジッすか?」
「……今度、また連絡するね。大学の寮に行くのはまずいだろうから、次は俺の家で」
大学の寮に入ってる事までどうして知っているのだろう。
俺が言ったのか?
連絡先も含めて、昨日の俺は見知らぬ人間に何を喋ったんだ。
「じゃあ、またね」
呆けていると、ちゅ、と音がして頬に唇が押し当てられたと気づく。
固まったままでいると、男は身支度を整えて何か言って部屋を出ていった。
俺は彼がいなくなってからも、現実を受け止めることができずに、天井のくるくる回るファンをひたすら眺めながら、必至に昨夜の記憶を掘り起こそうとしたが、セのつく行為に関しては何一つ思い出せなかった。
天国のおじいちゃん。見守ってくれていますか?
人生は本当にどう転ぶかわかりませんね。
どうやら俺もバラ色の世界に転がってしまったようです。
「ど、どうてい以上のなにかを失った気がする…………」